従いなさい
ヨハネによる福音書21章20〜24節
 他人に勧められて。あるいは自主的にであっても、初めて新約聖書を紐どいた人は、マタイによる福音書の第一章にびっくりします。「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。」 に始まって、何やらさっぱり分からない片仮名の人名がずらっと続いていて厭になってしまう。これが聖書というものかと思うと挑戦する気力がたちまち萎えてしまうのです。
 マルコの冒頭は、「神の子イエス:キリストの福音の初め。」 これはいけるかも。
 ルカによる福音書は、「わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々が」。 ふむふむ、これは小説的、しかも探偵ものだな。
 そして、ヨハネによる福音書、「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。」 えっ、何だって、超現実に迫る哲学おじさんの手紙かな?
 てな具合で、福音書の内側に入り込み、神さまのお招きを感じる頃は、青春が終わりかかってしまっていたのではないでしょうか。
 やがて論理的思考や分析だけでは、信仰を手に入れることは困難であり、よくよく考えた末にその向こう側に思い切って飛び込まなければならないと気がついても、ジャンプできない。
 それでも徐々に徐々に、気が付かないうちに、素焼きの甕に水が浸み込んで来るように、信仰が私の魂を捕らえていたのです。もう四〇代に入っていました。ヨハネによる福音書1章14節「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿われた。わたしたちはその栄光を見た。」 この意味が浸み込んで来たのだと思います。
 この14節の「わたしたち」という複数形こそ教会の信仰告白なのです。その栄光の中で伝道しているのが現在の人生なのです。
 私がヨハネによる福音書が好きな理由は、とても分かりやすくて共感するからです。しかもあまりにも丁寧でくどいくらいに語り掛けてくれるからです。が、そうでありながら、よく考えると分からないところが幾つも出てくる。それがヨハネによる福音書の魅力でもあります。問いを深めてさらに引きずり込んでゆく誘発力があるのです。
 ちょっと寒くて冬の雨が続いた水、木、金曜日の朝まで、聖書のテキストの箇所を読んでいましたら、またしても分からない部分が出てきました。その箇所を少し拘ってみましょう。
 大祭司の中庭で、ヨハネによる福音書18章18節、「僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペテロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた」。 その後ペテロがどうしたか、皆さんはよくご存知です。ペテロの一生の大失策、取り返しがつかない裏切りのドラマを演じてしまったのです。17節、「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」と言われて、「違う」、 そしてまたしても打ち消して「違う」と言い切ったのです。そのとき突然鶏が鳴いた。マタイ、マルコ、ルカもみんなこの場面を報告しています。ルカによる福音書22章61節は、「主は振り向いてペテロを見つめられた。」 そしてペテロは、「外に出て、激しく泣いた」のです。
 結局十字架の処刑の現場には弟子たちは誰もいなかった。皆逃げ去ってしまったのです。取り返しのつかないぶざまな結末になってしまったのです。が、一巻の終わりではなかった。
 キリスト教信仰の精髄である復活のドラマが、そこから始まった。
 本日のテキストの21章は、明らかに意図的な付け足しなのですが、新約聖書の写本では、21章は必ずくっついていて、削除されていません。つまり21章は、ヨハネによる福音書から削除できない重要な終わりなのです。いったいこの福音書を書いたのは誰なのかは、いまだに決着がついていません。私どもは学者ではありませんから、素直に伝承に従っていましょう。内容が肝心なのです。
 じつは21章は、聖餐式の始まりであり、かつ、伝道命令なのです。
 直前の20章19節では、復活されたイエスさまは、官憲を恐れて鍵を掛けた部屋に閉じこもっていた弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と祝福されたのです。さらに二七節、トマスにも表れて、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 と言われた。
 そして21章が始まり、ガリラヤ湖に戻って夜通し漁をしていた七人の弟子たちの前に現れて、パンと魚で、朝食を整えてくださったのです。この最初の場面は、まさに最初の聖餐式であったと言い切ってよいだろうと思います。
 しかし、十字架の処刑場から逃げ去ってしまったという負い目、そのうえペテロには、主を知らない、弟子ではないと言って否定してしまった取り返しのつかない負い目が重なっていた。
 そのシモン・ペテロに向かってイエスさまは、15節以下で、「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と三回も繰り返して訊くのです。3回とも、「ヨハネの子シモン」という切り出しです。「シモン・ペテロ」とは言わない。これはどういう意味合いがあるのでしょう。かつて岩のようにどっしりとした大きく重く強い信仰を褒めて、ペテロという名前を付けてくださったイエスさまですが、復活された今、岩というあの讃頌をはぎ取って裸のシモンにあらためて訊いていらっしゃるのです。ペテロは三回も繰り返されたので悲しくなって、「主よ、あなたは何もかもご存じです。」 と答えました。すると主はまたしても、「わたしの羊を飼いなさい」と答えられたのです。「あなたの羊を」ではありません。「わたしの羊」です。文字通り、イエスさまの羊、つまり全世界の羊を飼うのです。シモンはありありと事の重大さに気が付いた。  
 この時、イエスさまははっきりと付け加えています。「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」 これは迫りつつある殉教を予告されたのです。いまこそ岩となれ、岩の信仰をもって歩めと命じられ励まされたのです。
 シモンはペテロに生まれ変わったような充実感に満たされました。主は赦してくださったのだ。その時感激の涙が滝のように流れ落ちた、とは聖書には書かれていません。
 そうではなく、続く場面では人間の弱さというものをあくまでも冷静に描写しているのです。
 感激したシモンは、たちまちいつものような無邪気で素直でいささか軽率な男に戻ってしまったのです。男シモンは、またしても大きなミスを重ねてしまうのでした。20節、「ペテロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。」 21節、「主よ、この人はどうなるのでしょうか。」 と言った。この愛されている弟子は、復活したラザロであるという学説が一時話題になりましたが、今は再び謎の中です。誰であるかを問うよりは、イエスさまの答えの方が大事です。二二節、イエスは言われた。「『わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、私に従いなさい。』」 イエスさまは叱責されたのでした。この厳しい答えによって、ペテロはやっと目が覚めたのです。
 他人に関心を持って関わることと他人を材料にしてじつは自分の関心事に引きずり込むこととは全く違うのです。私どもがなすべきことは伝道に尽きます。その場合に私に与えられたタレントを十分に活かして伝道に励むべきなのです。
 行動的なペテロは偉大な伝道者の道に殉じました。ついには逆さ十字の死刑を選んだと言われています。
 一方、ヨハネは、福音を哲学的神学的にも整えて、福音書を、そしてみごとな手紙などの偉大な神学論を世界に残してくれたのです。
 ならば、私どもの信仰告白はどのような形を通して表現したらいいのでしょうか。
 土師教会に連なる私ども一人一人の働きを期待しながら見守っているイエスさまの期待に応えるべく立ち上がる時が今なのです。ただし思い上がってはなりません。聖霊のお助けなしには、実りある働きはできない。祈りつつ行動しようではありませんか。
 祈ります。

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