汚れた霊
マルコによる福音書5章1〜13節
 お伽噺のような報告をさせていただきます。先週14日、水曜日の聖研祈祷会は寒い一日でした。夕方からちょっと胸に圧迫感を覚えて、抑え込まれるような痛さでした。少し不安になりました。翌朝木曜日になっても痛みが続きました。堺市立病院の隣にある掛かりつけのF病院へ行きましたら、市立病院に連絡してくれました。恐る恐る訪ねますと、なんと急患の救急センターでした。繰り返される問診に始まり、すぐさま心電図。ベッドのままの移動、エコー。もしやという不安と緊張。解放されたのが午後三時過ぎ。その結果は、今のところ大丈夫ということです。が、動揺の余り保険証のカードを紛失、翌朝カードを探しに堺区安井町付近をもう一度ほっつき歩きましたが、徒労に終わりました。結局明日の月曜日の午前十時半に市立病院の循環器科の正式な検診を受けることになりました。
 すっかり疲れました。皆さんもお体を大切に大切になさってください。一日一生の人生です。
 さて今日のテキストも健康、それも心の病についてであります。テキストの小見出しは、「悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす」です。5章1節、「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。」 とあります。「ゲラサ人の地方」とはいったいどこでしょうか。ここはガリラヤ湖の東側ヨルダン川の辺り一帯を指しています。異邦人の世界です。
 イエスの一行はすでに異邦人への伝道に入っていたのです。ここではユダヤ人と異邦人との精神風土の違いが色濃く反映される物語が全面的に押し出されています。2節、「イエスが船から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。」 とあります。「ゲラサ人」とありますから、同じ白人セム系であっても異邦人なのでしょう。少なくてもユダヤ人ではないようです。となるとイエスさまの異邦人の男性伝道の本格的な姿が描写されていると言える。「汚れた霊」すなわち悪霊は旧約以来の世界であり、格下げされ堕堕落天使だと思われます。
 彼(彼らという複数でもある)は墓場を住まいとしており、3節、「もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。」 4節、「これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。」 人格が破壊されているらしい。最近急速に注目されている多重人格共存という精神的な病気らしい。「引きちぎり、砕いてしまう」となれば、かなりの暴力的な力の持ち主なのです。しかも悲惨なことに、5節、「彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。」 というのです。人格崩壊です。苦しんでいるのです。しかし完全な狂人ではない。その証拠に、6節、「イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、」 7節、「大声で叫んだ。『いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。 後生だから、苦しめないでほしい。』 と言ったのです。 
 と言うことは、その鋭い直観でイエスさまが何者であるのかを見抜いていたということです。この男に宿っている悪霊は人格がばらばらになっているが、感受性は鋭く、イエスさまの本質を見抜く洞察力は人並みどころか、とくに鋭く正確だったと言える。「いと高き神」という表現は、当時の異邦人がユダヤ人の神について物言う時の決まり文句であったようです。さらに、「かまわないでくれ。  
 苦しめないでほしいくれ」という物言いは、イエスさまの権威、支配力を十分に知っているということになります。なぜなら、イエスさまが即座に、「汚れた霊、この人から出て行け」と命令したからです。イエスさまは悪霊の支配権を要求したのです。
 イエスさまは、悪霊をすでに知っていたのですが、改めて相手の名前を聞いたのです。私どもも何か深い関心をある人に抱いたときは、「お名前を教えて下さい」と言います。名前を知るということは、相手の人格を理解する出発点であり、支配権の要求であり、相手の運命の決定権を握ることでもあったのです。
 その答えは、「名はレギオン。大勢だから」です。これはどういう意味なのでしょうか。
 当時の人々は、「レギオン」という言葉には馴染みがあった。じつはこれはローマ軍の構成内容なのです。百人隊長だけでも大きな権威を持っているのですが、レギオンと言えば騎兵隊も含んで三千人から五千人にもなる大部隊なのです。つまりこの悪霊は単数ではなく複数の存在、多重人格を意味しているのです。悪霊に取り付かれたレギオンは、統一された人格ではなく、ばらばらに分裂した多重人格者なのです。レギオンが恐れたのは、イエスさまの権威なのです。イエスさまに出会ってしまったので苦しんでいるのです。崩壊している自分がさらに追い詰められるではないかと苦しんでいる。自分の存在がどうなるのか全く分からない恐怖の中に追い詰められたのです。どうなるのか。10節、「自分たちをこの地方から追い出さないようにと」としきりに願った。なぜか。当時一般的には、悪霊にも棲み分けがあり、この地方には何々という悪霊が住んでいると理解されていたらしいのです。ですから多重人格のレギオンは、この地方からの追放を恐れたのです。
  11節、「ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。」とあります。旧約以来ユダヤ人は豚を食べることは禁じられていました。食してはならない忌み嫌われていた動物だった。が、この辺りの異邦人は、(ギリシア人も)豚肉が好きであり、美味しい肉として歓迎していました。食用としての豚肉は、日本の国内でも沖縄や関東は豚肉文化圏なのです。みなさんは、ルカ福音書の放蕩息子の物語をよくご存知のはずです。あの息子は、異邦人の土地で、空腹の余り、ユダヤ人が嫌っている豚が食べるイナゴマメを食べたいとさえ思ったのです。それほど忌み嫌われていた豚さんが気の毒ですね。
 12節、「汚れた霊どもはイエスに、『豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ』と願った。」のです。13節、「すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。」 とあります。
 14節、「豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。」 聖書では、羊飼いは大体良い羊飼いが登場します。イエスさまは最高の羊飼いです。それに引き換え豚飼いのイメージは、どうでもいい存在です。ここには異邦人社会とユダヤ人社会における豚の位置づけの違いがくっきりと描写されているのです。関東のとんかつファンの私としては、高校生時代からこの場面の豚さんたちと豚飼いたちに同情しないではいらえなかったのです。そういう背景を理解したうえでこのテキストを読まないとメッセージはうまく伝わって来ないでしょう。イエスさまが言いたいことは、二千匹の豚を犠牲にしてでも一人のこの多重人格の病を負った患者を回復させたかったのです。一人の人間の価値は二千匹の豚よりも掛け替えのない尊い存在なのです。その後、豚飼いたちはどうなったのか、聖書は何も書いていません。
 そう言えば、マタイによる福音書には真珠を豚に与えるなという言葉もあります。現代の私どもには、豚もまた掛け替えのない存在価値です。癒されたその男は、15節、「彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。」 のです。普段の私どもでしたら、今ここで礼拝しているとき、「服を着て座っている」ことは、ごく当たり前なのですが、ごく自然な当たり前なことがごく当たり前にそこにあるということが恐ろしく感じられる恐怖って分かります。恐ろしいということは、権威が示した圧倒的な出来事の凄さを実感するということです。当たり前な何気ない日常が目の前にあるということは、圧倒的な平和な光景なのです。イエスさまの権威と力の実現を栄光と言ってもいいでしょう。
 そしてイエスさまと一緒に行きたいと願ったその男に対して、19節、「自分の家に帰りなさい。」 と。主が自分にしてくださったことを日常の現場で語れと命じておられるのです。
 私どもは、ともすれば、主がなさってくださったことをことごとく忘れ去って、主は祈っても祈っても何もなさってくれないと言ってはいないでしょうか。今日こうして生かしてくだっていることの奇跡的な事実を受け入れることなく、不平と愚痴と不満の中で貴重な一日を浪費しているレギオンは、じつは私どもなのです。
 主の前にひれ伏して、懺悔して、主の体である教会に属している奇跡を、感謝を持って受け入れて、傷だらけの地球を回復するために、神戸の二十歳の若者たちのように、この地球を照らし続ける日常をしっかり歩んで行こうではありませんか。そうでなければあの地震を経験したと人の前で言う資格はありません。
 祈ります。

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