ほえたけり
アモス書1章1〜10節
 皆さんは、黒沢明を尊敬しているアメリカのコッポラという映画監督をご存知ですか。
 1979年に公開されたベトナム戦争を描いた「地獄の黙示録」の監督です。70ミリ判という巨大なスクリーンと最先端の音響効果で展開されるこの評判の映画を38歳だった私は、四国の善通寺から大阪のOS劇場まで駆けつけて来て鑑賞しました。これは、コンラッドの小説「闇の奥」やT・Sエリオット詩集「荒地」などを翻案して舞台をベトナム戦争へと移動させた、戦争という暴力や狂気を主題にしていますが、カンボジアの密林の奥深くに秘密の独立王国を築いているアメリカのグリーンベレー特殊部隊から暴走したカーツ大佐がいる。そのカーツ大佐を殺害抹殺するように任命された大尉の運命を描いた叙事詩的映画の大作です。
 フィリッピン軍の強力な協力を受けて撮影と音響の二部門でアメリカアカデミー賞を受賞したあと、カンヌ映画祭でグランプリを獲得。世界的な注目を集め、当時は賛否両論で沸き立ちました。
 その冒頭部分で、ベトナムを空から攻撃するアメリカ軍、実際のUH―?戦闘機ヘリ九機がベトナムの村とジャングルを攻撃するシーン、あの恐るべきナパーム弾の爆発で飛び散る海辺の椰子の森、操縦士たちのヘッドホーンを通して画面には洪水があふれるようなワーグナーの「ワルキューレの騎行」がスクリーンをたたきつける。襲撃する米軍兵士たちの肉体は明らかに快楽に酔いしびれて、奇声を発し、悪魔的な黙示録が出現する。そして兵士たちは裸になり、海辺のサーフィンに熱狂する。
 その時、突然私は、35年前のB29の東京大空襲を想起させられたのです。あの大地を引き裂くような強烈な地響き、恐怖のあまり身動きできなくなった満四歳のあの時を再体験させられてしまった。あとはどんな内容だったのかよく分からぬままその座席でうずくまっていた。この映画はアカデミー賞の撮影賞と音響賞を獲得したのですが、私は鑑賞どころか、幼少期体験の再現となり、35年間の戦後史を振り返る貴重ではあるが苦い苦痛を強いられたのでした。暴力と狂気の戦争の本質を何度も噛み締めてきたはずだったのにまたしても歴史の無残さを噛み締め直さざるを得なかったのです。
 あの地響き、あの恐怖は、私にとっては、今日のテキストにまっすぐにつながっているのです。
 アモスは、南北王朝時代のとくに北のイスラエル王国を舞台に預言活動を行った人物ですが、20年前の神戸・淡路関西大震災および四年前の東日本大震災をも思い起こす内容です。アモス書1章1節の序詞をご覧ください。「テコアの牧者の一人であったアモスの言葉。それは、ユダの王ウジヤとイスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムの時代、あの地震の二年前に、イスラエルについて示されたものである」と書かれています。 アモスは大木イチジク桑の大農園の経営者であり、その預言活動はほんの二、三年間であったと言われています。しかしアモス書という題名は、預言者の名前で纏められた最初の書なのです。そういう意味でアモスは記述預言者の最初の人物として知られています。
 そしてこの序詞の最後の二行は、興味深いことに、「あの地震の二年前に、イスラエルについて示されたものである」とあります。これを読んだ人は、「あの」と言われて「あれ」を思い出すことがあったかも知れない。知らなくても日本と同じ地震地帯のイスラエルの人々は、それぞれの「あの地震」を想起するのであります。
 2節、「彼は言った。/主はシオンからほえたけり」。 私どもは、普段、「吠えたけり、吠えたける」と人間の発声を描写しません。「吠え」は、犬が音高く発声する行為の描写です。さらに「たけり」が続くと、犬よりもさらに大きなもの、獰猛な強いものを思い浮かべるでしょう。オオカミそして行き着く先は、もちろん百獣の王ライオンです。えっつ、イスラエルにライオンがいたの?となります。
 が、いたからこういう表現が成立したのです。ライオンは聖書になんと159回も登場しています。聖書の時代にはヨルダン川に沿う草原や林に生息していて、人間や家畜を襲った森林の中や洞窟を住まいにしていたようです。水が引かれている牧場に上がってきたが、普段は川の葦の茂みに潜んで機会を覗っていたのです。紀元前にはヨーロッパにもいたようです。中近東の遺跡には、ライオン像がしばしば目に付きます。ソロモンの神殿や宮殿の装飾にも見られるのです。紀元前334年、ヨーロッパからインドまで襲来したアレキサンダー大王は、獅子アレクサンダーという異名を持っています。その恐ろしい声と襲来が恐れられたのです。つまり力と勇気、威厳、獰猛などの象徴であったのです。黙示録では、キリストをも表した。ライオンは、王でありサタンの象徴でもあった。 
 ところで日本の獅子舞はいかがですか。あれは、神社の入り口で見張っている狛犬に似ています。ライオンから狛犬や獅子舞の獅子などの姿が想像されてきたのです。獅子はすなわちライオンなのですが、そこから狛犬や獅子舞の獅子へと変化していったのです。インドネシア、中国、朝鮮、日本などのアジアが生んだ想像上の動物のイメージです。獅子頭がぱくっと幼児の顔を噛むのも祝福となるという楽しい祭り行事の一つなのですが、野生のライオンは畏怖の対象、すなわち王であり、サタンでもある。黙示録の世界なのです。
 もう一度、2節をご覧ください。ライオンの雄たけびの描写なのです。

  彼は言った。
  主はシオンからほえたけり
  エルサレムから声をとどろかされる。
  羊飼いの牧草地は乾き
  カルメルの頂は枯れる

 二つの分裂王国(ほぼ現在のイスラエルの領土)は、北イスラエル王国も南ユダ王国も大地震の襲来は予知されていなかった。その上両国とも繁栄期の中にあって、北のシリア、アッシリアはやや衰退期であったので政治的外交的な危機感はまったく感じていなかった。歴史の危機というものはいつも優れた少数者が感知するのです。支配層も一般庶民も気が付かない。今日という日の安定と繁栄さえあればいいのであって、その向こう側を見ようとはしない。
 数日前、フランスを襲ったテロ集団による国家的危機も現象としては、突発的狂気事件と言うことになってしまう恐れがあります。が、そうではないでしょう。難民や移民に対して心を開いている寛大なフランスですが、その寛大さを守るためには膨大な努力が必要なのです。
 今の日本も同じでしょう。ヘイトスピーチが孕んでいるものをきちんと見極めないととんでもないことになりかねない。預言者の伝統がない日本の中で預言者の役割を担うべき者は、キリスト者なのです。私どもこそ蛇のように賢く、鳩のように素直にならなければ時代を見通せない。
 「ほえたけり、とどろかされる」のはライオンである主なのです。先に述べたように、牧草地には必ず水が流れている。詩編の23編に歌われているように、「主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い/魂を生き返らせてくださる」のです。その牧草地が「乾き」とある。この場合の「乾く」は、のどが渇くの「渇く」ともつながりますが、文字通り水がからからになって干上がってしまうという意味です。魂の死の状態です。そこにとどろいで来る主の大音声の声。「カルメルの頂きは枯れる」とは何か。北イスラエルが誇るキション川の傍に立っているカルメル山は、ぶどう畑が広がっています。大阪府南部の太子町辺り一帯の葡萄畑が思い浮かびます。昭和の一時期には日本一の葡萄畑と葡萄酒の生産地だったのです。カルメル山も同じでした。その山の「頂が枯れる」という預言です。北イスラエルの宮廷に現れたアモスの容赦ない預言は、宗教的指導も含めてたちまち支配層を怒らせ、サマリヤから追放される結果になるのです。ほんとうの愛国者とは、権力の中枢に向かって苦い矢を放つ人たちです。
 祭司アマツヤに追放されるアモスは、7章14節、1438頁の下段の終わりから4行目でこう言っています。「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ。」と。
 おそらくアモスは南の故郷テコヤへ帰って行ったのでしょう。活動期間はわずか二、三年だと言われています。イスラエルは二年後大地震に襲われ、アッシリアに侵略され、滅亡していったのです。
 現在もまた世界中が息苦しくなっています。神戸大阪淡路関西大震災から20年、そして東日本大震災から4年、去年の広島の地滑り、御嶽山の噴火爆発、北信濃震災と続いた天変地異。
 こんな時こそ、私どもはじっと耳を澄まし、聖書を開き、神さまの御心を受信しなければなりません。
 今もアモスの時代と同じような危機の状況なのですが、しかしアモスはもういません。私どもはもう一度心を引き締め、聖書を読み直し、近づいて来る危機を回避して、克服するために、もっともっと敏感になって受信装置をフル回転させていかなければなりません。そして希望を生き抜く福音にしっかり立って、お互いを激励しながら歩んで行きましょう。
 平和を実現する人々は、幸いである。
 祈りましょう。

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