弁護者
ヨハネによる福音書 16章5〜13節
 一月一日、寒波到来の中、祝されて元旦礼拝を終えました。続いてニュータウン教会で午後一時半から南海地区合同礼拝が開催されました。終わる頃から、雪がちらちら舞い始めていました。運悪くどなたの車も満員で妻と私は置いとけぼりになり、仕方なく30分に一本の堺東行きバスを待つことにしました。吹き殴る風に乱れ舞う雪の中、手袋を持って来なかったのを悔やみました。バスは40分余り掛かります。停留所でドアが開くたびに風が吹き込みます。
 すると途中の坂道でバスが停まってしまいました。前方を見るとマイカーがずらり、長蛇の列を作って停まっています。信号機が青なのに、どうして、事故だ。私どもは知人宅に招かれているのです。降りることも出来ず諦めていたら、指導員がマイカー以外に前進OKの旗を振っています。
 何があったのか。答えは簡単明瞭。初詣です。近くに神社があった。進入許可待ちでした。家族連れ、友人同士など。何という名前の神社でどういうご利益があるのか分かりませんが、家内安全、商売繁盛を祈りに来たのです。
 多くの日本人が三が日の内にいそいそと初詣に出掛けます。中には掛け持ち、渡り歩き詣でまであるようです。十戒の第一条、「あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない」を、私は想起していました。
 どうも日本人の多くは元旦の朝、家族そろってテーブルを囲んで、「家内安全、商売繁盛」を祈ることはしないようです。神社仏閣に足を運んでお賽銭をあるいは万札を投げ入れて拝まないと効き目がないと考えているようです。名前を知らない神々に祈祷しているのです。
 どんな神に祈っているのか、どんな信仰体系に生きているのか、神々は信徒とどのような関係にあるのか、そんな宗教体系や教理は要らない。ましてや『古事記』や『日本書紀』が神道の経典であることさえ知らないようです。明治以降、国家体制を整えるために伊勢を頂点に据えた全国の神社の格付けが行われ、ピラミッド組織図が作られ、余計な神社は廃止されていったという恐るべき政治的暴挙が実施されてきたことを忘れてはなりません。
 初詣について以上のようなことを考える機会を与えてくださったのは、合同礼拝後置いときぼりになってバスで帰ることになったお蔭です。
 宗教者は、本来、平和の砦を築くことを第一に心掛けるべきなのです。
 私どもキリスト者は、とりわけ平和の構築に貢献すべきです。私どもの神がいかなる神かを知っています。家庭内で家族で祈り、あるいは教会で祈祷会を持ち、何のために祈るのかをきわめて明確に自覚しながら祈ります。
 そして毎週聖日礼拝を守って、神と人との関係を見つめながら、どう生きるべきなのか、どのように教会や社会に関わり、貢献すべきなのかを吟味しています。
 それでも時々神さまを見失ったり、信仰がぐらついたりします。そういう危機を感じるとき、今日のテキストが慰めになるのです。
 この有名な訣別(お別れ)の長い説教は、おそらくヨハネ教団の信仰告白なのだと思います。というのはじつに丁寧に噛んで含めるようにイエスさまの語りが展開されています。正直に言いますとちょっとくどいのではないか、と、思うほどです。が、こういうくどさは教育には必要なのです。愛情に基づいたくどさです。
 この16章は、すでに14章で伝えている真理の聖霊について語っている。けれどもイエスさまは弟子たちに向かって、12節、「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。」
 続いて13節、「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」 というのです。
 イエスさまは「わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしている」と言うのです。言っていることは文法的には何んの問題もない。ないのですが、どういうことなのか具体的には分からない。イエスさまの語りはいつも大胆なのですが、それが寓意なのか比喩なのか、肝心なところがついていけないことが多い。問いや疑問に対して、視点や論点を少しずらして本質的なところをぐさりと衝いてくるのですが、弟子たちの頭の回転のリズムが合わなくて、去っていくと聞いて、ただただ、「こころは悲しみで満たされている」ということになっていくのです。
 少し前に戻ります。14章4節(196頁下段)で、イエスさまは、「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」。 5節、「トマスが言った。『主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうしてその道を知ることができるでしょうか。』 6節。「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』 
 こんなやりとりがすでにあったのですが、弟子たちは皆ぽかんとして何が語られているのか理解できなかったのです。
 ここで現代の日本人としてかろうじて手掛かりとなるのが智恵子抄を書いた詩人彫刻家高村光太郎の詩集『道程』です。その「道程」という詩の書き出しは、
   僕の前には道がない
   僕の後ろには道ができる
 です。華道、茶道、武道など「道」という単語は、人生の道と?がっていく道徳的、倫理的な感覚があります。ここからトマスの「どうしてその道を知ることができるでしょうか。」 は、もう一歩です。
 その時のイエスさまの答えは、「その道がどこにあるのかではなく、またその道を探せ」でもなく、先に述べた答えだったのです。さきに述べたような思いがけない直球の断言だったのです。
 すなわち、14章6節、「わたしは道であり、真理であり、命である。」 ここまでまっすぐに明言されてしまうと、圧倒されるというよりは、ぽかんと口あんぐりです。我に返ったあと、この科白が、考える前に心に刻み込まれていることに気が付いたのです。
 イエスさまが道そのものだったのです。
 7節、「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。私が行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」
 飛んで13節、「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、またこれから起こることをあなた方に告げるからである。」
 「弁護者」と言う言い方は、ヨハネ福音書だけに登場するのですが、他の訳語では、「慰め主、助け人、弁護士」などがあります。」 弁護士は、法律の専門家、であって、弁護者というと少し微妙に違うものを感じられませんか。キリスト者の当時の不利な状況を理解していて、親身になって守り導いてくださるイエスさまの代行者という意味です。
 個人の自力で人生は切り開くものという理解の方が二十一世紀には一般的に支持されていますが、ほんとうでしょうか。人生は、個人の所有物ではない。父と母と兄弟姉妹、社会の多くの方々に守られ、導かれて展開されているのですが、何よりも私どもが胎の中に宿る以前から祝福と共に地球に植えてくださった創造者がいらっしゃるのです。私どもが気が付かない時からあふれる愛を注いでくださっている主に出会って初めて人生はその本質が見えてくるのです。
 この私どもを導いていてくださる弁護者こそ生きていく上での助け人、慰め主なのです。
 イエスさまの生涯はわずか三十数年でしたが、天の父の右の座に帰られた後、私どもの内部にイエスさまが送ってくださった弁護者が宿り、たえず励ましてくださり、私どもの力量を超えて大きな愛の業を成し遂げさせてくださるのです。この弁護者が、「真理の聖霊」なのです。この弁護者に支えられた人生なのであると分かった時、私どもは思いがけない新たな力に満たされるのです。
 さあ、怖じず怯まず、イエスさまの愛の業を今年こそ一人でも多くの方に伝えていきましょう。

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