芽生えさせるように
イザヤ書61章8〜11節
 現代の人類は、地球の山も平野も海もそして空や星座や宇宙までも自分らのものだと錯覚しています。自分の領土だから無料、どのように使おうと勝手だと思っている。とくに日本人は、地下水に恵まれているので水道代はただ、ぐらいに思っている。最近になって、有料の水のボトルを飲むようになりました。新幹線の車内で無料の飲み水はなくなってしまいました。が、今でも街の食堂に入れば、水やお茶は当然サービス、ただ。しかし、これは日本だけなのです。フィリピンでもヨーロッパでも水は買って手に入れるものなのです。 厚かましいことに宇宙も無料だと思って、早い者勝ちで宇宙基地の建設に血眼になっています。国同士で領土争いは、ますます激しくなりそうです。
 宇宙も地球も神さまが御創りになったのだという事実が忘れ去られている。あるいはその事実を知りたくない。物の所有の最たるものが家と墓と土地である。飽くなき物欲は、同時に権力と支配力へと結びつき、その行き先が戦争です。石油、ガス、そして原子力、核の所有。まさかこれが人類の築いたヒューマニズム文明の成果なのでしょうか。
 一昨日の火曜日、冷え込んでいく九時前、土師教会の看板の前を自治会と消防署の方々が、火の用心の拍子木をカチンと打つ音が一回だけ、聞こえてきました。ただし、「火の用心」という懐かしい歌のような掛け声は聞こえませんでした。みなさん寒くて黙って歩いているからでしょう。思わず、高齢者のみなさんに、「お疲れさまです」とお礼の挨拶がしたくなりました。こんな冬の夜の風物詩のひと時と飽くなき物欲とを並べてみると人間の面と裏の二面性にあらためて心が罅割れしそうです。
 今、元旦の朝です。今でも歳の瀬になるとスーパーなどで時々聞こえてくる「一月一日」という1893年(明治26)の千家尊福(たかとみ)作詞の文部省唱歌を覚えていますか。
   年の初めの例とて
   終わりなき世の めでたさを
   松竹たてて 門ごとに
   祝う今日こそ 楽しけれ
 明治20年代は、国粋主義の台頭期であり、じつは、作詞者の千家尊福(たかとみ)は、皇室よりも歴史が古いという出雲大社の千家の出身なのです。この千家尊福は、私が育った埼玉県知事にもなっています。この歌の二番を覚えている人はおそらくいらっしゃらないと思います。「天皇は神聖にして犯すべからず」という旧日本帝国憲法の天皇賛歌なのです。元旦の日に現人神を賛美する歌なのです。ここであらためて紹介する必要性はありません。
 激動の明治期日本から、古代イスラエルに舞台を移しましょう。バビロン捕囚からようやっと解放されて、エルサレムに帰還したユダヤ人は、国家の再建のために神殿を回復しましたが、ユダヤ教教団の組織化と共に、再び政治的経済的な混乱が始まり、宗教的堕落の中で支配層も暗躍する時代を背景にして第三イザヤが預言活動を展開します。
 そもそも旧約の代表的預言書「イザヤ書の作者は、第一イザヤ(1〜39章)が有名ですが、じつは、第二イザヤ(40〜55章)、第三イザヤ(56〜66章)と続いています。そして第二、第三イザヤの名前は不明なのです。
 今日のテキストは、第三イザヤの核心部の60〜62章の一部分です。その小見出しは、60章「栄光と救いの到来」、 61章は「貧しい者への福音」、 62章は、「シオンの救い」です。ここに集約されているのは、混乱がつづく捕囚後のイスラエルに対する神から与えれた希望なのです。新たなシオンの回復への希望なのです。
 イザヤ書11章1節の有名な出だし、「エッサイの株から一つの芽が萌えいで/その枝からひとつの若枝が育ち」の平和の王の到来の預言の二行があります。が、「エッサイの株」と言われると、あれエッサイって何だったかなあ、地名だったかなあなんて暢気なことを考える方がいるかもしれません。が、エッサイとはダビデ王の父親の名前でしたね。この出だしは、植物からの比喩表現です。旧新約そろって植物を素材にした表現が印象的です。それに比べてカブトムシとか蝶々、とんぼなどの身近な昆虫類はほとんど登場してきません。なぜでしょうか。
 答、麦が代表している食べられるもの、あるいは青々とした緑なるものへの方が遙かに喜びがあるからです。砂漠の中のオアシスに辿り着いた時のような喜びに似ています。しかも種蒔きなどから成長、繁殖、収穫までいつも身近にあるので、その植物と共にあるという共生感覚が大きいのです。食べることは、主の祈りにあるように「日毎の糧」は、生きていく上での切実な必要条件なのです。ですから植物を素材にした描写、しかも比喩が多い。
 旧約の虫では蝗の大群が食い尽くす恐るべき害虫として荒れ狂いますが、新約では、食べられるものとして荒野のヨハネが蝗と野蜜を食べていたと報告されています。害虫として、食用としてのふたっつの顔を持つ蝗の登場がおもしろいですね。
 さて、再び植物に戻りましょう。
 60章21節をご覧ください。「あなたの民は皆、主に従う者となり/とこしえに地を継ぎ/わたしの植えた若木、わたしの手の業として輝きに包まれる。」 とあります。あるいは今日のテキストの61章の3節の終わりから2行目をご覧ください。「彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。」 とあります。私どもがよく知っている樫の木というよりは、テレピン油になるテレビンの木を指しているようです。まあ、それらの幾種類かの樹木の総称なのでしょう。十bもの大木もあるようです。強さの象徴でもあり、また聖なる木として宗教的意味も担っていました。この木の下に葬られたり、いくつもの歴史的事件とも結び付けられてもいます。どのような状況にあっても、神さまは私どもを「正義の木だ」と断定されていることを、この年の初めにあらためて気づかされたことは凄いと私は思うのです。
 61章の小見出しは、「貧しい者への福音」です。どこの国でも復興と再建のドラマのさ中で貧富の差がさらに増幅され、「打ち砕かれ」、 新たな「捕らわれ人」が出現するのです。革命後の失望は、私どもも歴史の現場で何度も見てきました。半世紀以上の捕囚から解放されたユダヤ人も同様だった、と、知れば、私どもはいったいどこに救いの可能性、否、救いへの確信はいったいいつ訪れるのだろうか。いったいこの混乱、この悲惨な地球の現実に出口はあるのかと叫びたくなります。
 この時、第三イザヤは自分の決定的な時を迎えたのです。2節をご覧ください。「主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め/シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。」 です。
 その後(あと)を見ると、驚きの表現が息づいています。すなわち、「彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の木と呼ばれる。」 のです。またしても樹木です。
 私どもも幼い頃は、村のあるいは学校の運動場にあった大きな木(樹木)の下に集まって歌ったり踊ったりしました。「大きな栗の木の下で あなたと私楽しく遊びましょう」。
 大きな木はいつも全身で語ってくれました。共同体の歴史を。雲も虹も鳥も一緒でした。
 あの頃と今はどう?がっているのか。この悲惨な現実は何なのかと叫びたいのですが、驚くべきことに、神さまは私どもを「正義の木と呼ばれる」のです。
 幼いあの頃、何も知らなかった私どもですが、あれは聖なる木だったのです。神さまが幼い者たちにそっと教えてくれた正義の木だったのです。その後の歩みの中で、辛い事や悲しい事を体験してあの木は大きくなった私どもであると分かったのです。じつに正義の木は、私どもなのです。辛い事や悲しい事は恵みだったと分かった今、今度は私どもが共同体の歴史と希望を語る役割を担うべきなのです。
 イザヤは何を伝えようとしたのか、いまははっきりと分かります。感謝します。
 今日のテキストは8節からですが、ここが神さまの答なのです。「主なるわたしは正義を愛し、献げものの強奪を憎む。/まことをもって彼らの労苦に報い/とこしえの契約を彼らと結ぶ。」 と。
 私どもは神さまから契約していただける神の民なのです。だから、私どもは常に希望に生きられるのです。
 神さまが与えて下さった福音とは、戦いに勝ったローマ軍が、「喜びの知らせだ、勝った、福音だ、バンザイ」という意味なのです。ですから現実がどんなにひどい状況であっても、そうであるがゆえに神さまは私どもを「正義の木」として育つように植えてくださったのです。神さまは、私どもに呼びかけ、立ち上がらせてくださるのです。
 最後に、11節を噛み締めましょう。
   大地が草の芽を萌えいでさせ
   園が蒔かれた種を芽生えさせるように
   主なる神はすべての民の前で
   恵みと栄誉を芽生えさせてくださる。
 さあ、勝利を目指して前進して行きましょう。祈ります。

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