父の諭し
箴言 4章10から18節
 先週日曜日のクリスマス礼拝、水曜日の聖夜賛美礼拝そして木曜日の子どもクリスマスの諸行事が無事終わりました。みなさんお疲れさまでした。
 その直後、妻の携帯が故障してしまって修理に出しました。翌日、目覚ましが鳴らない金曜日の朝、玄関の愛農のベルで目が覚めました。
 この冬、一番遅い朝食を食べていますと、窓の外には、すっかり枯れて黒く縮んでしまった皇帝ダリアが三本、葉っぱと花が散って残された愕だけの黒いミイラの枝に、大きな百舌鳥が二羽上の方と下の方にやってきて脇目も振らず愕や葉っぱを啄んでいます。
 そう言えば小鳥たちには味覚があるのでしょうか。塩も味噌もマヨネーズもなくて美味しいのでしょうか。
 そう言えば、人間である妻と私は基本的には関西の味覚ですが、麺類や惣菜などは好みが微妙に違ったりします。野鳥の百舌鳥は美味しさをどう塩梅するのでしょうか。こんな他愛無いことを考えながら京都の柿や岩手のリンゴの味をゆっくりと楽しめたのは朝寝坊のお蔭でした。
 昼前、立て看板のフェンスにぶら下がっていた最後の小さな瓢箪を小学生が、「これ欲しかったんだ」と言ってもぎ取って行ってしまいました。来年も育てたら来年ももぎ取って行くのかなとぼんやり考えていたら、もうすっかり色褪せてしまった紫式部の鈴なりの実を鶯が一羽夢中して食べています。よく見ると、目の周りが白く縁取られているので、メジロだと分かりました。これからが本格的な酷寒だというのに、春遠からじなのでしょうか。
 ああ、一年が終わる。何事もないような静かな田舎の穏やかな年の暮れなのですが、政治的経済的な日本の現状はそうはいかないようです。
 堺東で、木曜日の夜十時十分発の深井行きの最終バスを待っていたら、辺りは、街のイルミネーションが輝いていました。おそらくノーベル賞が影響しているのでしょう。LEDでしょう。でも街路樹は眠れなくて苦しんでいはしないかなと思いました。人権、飢餓、暴力などじつは世界中が苦しんでいる年末です。
 さて、今日のテキストの箴言という題名も漢訳聖書からもらった題名です。そもそも箴言という言葉はどういう意味でしょうか。日本語の箴言という言葉は、鍼から来ています。現在の鍼灸院の鍼は金属製ですが、古代中国の鍼は竹であったようです。箴言の箴(はり)です。鍼灸は、体のツボに鍼を刺して病気を治す療法です。箴言とは人生のツボに鍼を刺し込む言葉なのです。箴言は、人生の格言、金言、類似表現による教訓、寸言、警告などの権威ある教訓の総称だと思えばいいでしょう。そこに基本的にある視点が、正義と平和なのです。
 しかも古代オリエント文明圏で培われた格言が背景にあって、それらとの関わりの中からヘブライの知恵が編集されたのです。
 箴言は知恵に優れたソロモン王が書いたものだと言い伝えられてきましたが、学問的にはそうではなくて、バビロン捕囚の時代からそれ以後に纏められ、編集したものが、今私どもが馴染んでいる旧約の箴言なのです。バビロンやエジプトなどの文学の影響が色濃いのですが、旧約の中に収められているということは、積極的な意味があります。それはヘブライ文学としての知恵文学であるということです。
 ではそもそも知恵とは、何でしょうか。この現実の暮らしの現場で具体的、実践的にどのように生きていくべきなのか、どのように身を処すべきなのかを適切に手に取るように、時にはユーモアも混じえて教えてくれるのが箴言なのです。
 それなら、どこが他の金言、格言文学と違うのか、と言えば、そこには、ヤハウエ宗教である強い信仰が息づいている知恵文学であるという意味なのです。明確な信仰と確信に立つユダヤ教がある。それを教え込んでくるのがユダヤ民族の家庭、そして宗教共同体なのです。家庭と宗教共同体によって民族の伝統は引き継がれ未来へと?がっているのであり、現在のイスラエル国家があるのです。
 が、私どもキリスト教教会は、ヤハウエ信仰のほんとうの実現がイエス・キリストの一回性の人生そのものであると理解して、旧約新約を貫く神によって今日生かされていると確信しているのです。
 箴言がヤハウエ信仰に立っている宗教的知恵文学であるという本質は、第一章の七節(990頁上段の終わり)にはっきり書かれています。「主を恐れることは知恵の初め。
/無知な者は知恵をも諭しをも侮る。」 と。これこそ教えの第一根本原理であります。ここから信仰も学問も政治、経済、文化も出発する、展望できるのです。こういう決定的な根本がなければ束の間の間に合わせの処世術に過ぎません。
 蛇足になりますが、知恵文学とは、神の言葉を信従する正しい知者を育成する書物なのです。
 米屋であった私の父も大切な教訓を幾つも与えてくれました。百姓は、米を育てるために88回も手を加える。米という漢字を見ればその苦労と喜びが見えてくる。俵の蓋である三俵を縄で縛るのを手伝っている時、「肉体労働を蔑む風潮は、国の堕落だ」などと教えてくれました。さらに神仏への畏怖をも教えてくれました。が、肝心の神とは仏とは何かについてはおおまかな汎神論の域を出ませんでした。
 しかし、ここから私の神の探究が始まったのです。
 第四章の小見出しも「父の諭し」です。家族の親分であった父が浮かんできますが、同時にわがままで自分勝手、弱点も多かった父の姿も思い出します。父に盾突いてさんざん文句をついて大きくなった私は、父と自分がそっくりであること、特にその弱点こそ親子瓜二つであることを知っていったのです。
 そこから権威ある父のイメージを追及するようになった。紆余曲折して辿り着いたというよりは出会ったのが父なる神であった。
 さて、旧約聖書の知恵文学としては、「箴言」、「ヨブ記」、 「コヘレトの言葉」がありますが、「箴言」は、主に因果応報の原理に立っていて、神の言葉を信従して歩めば必ず幸福が与えられると真正面から説いています。そして、「ヨブ記」や「コヘレトの言葉」は、もっと人生経験の重みの中から信仰というものへの本質的な問いや逆説的な神への論争的な反逆など、「コヘレトの言葉」はきわめて個人的な視点に立って、人生への虚無的な感慨などを書き留めているのです。この三者の関係については最後に申し上げます。
 そんな私にとって、小見出し「父の諭し」は、実の父との数々の思い出が甦って来て、その積み重ねの上に、箴言が大きく重く深く突き刺さってくるのです。
 4章の1節をご覧ください。「子らよ、父の諭しを聞け」は、有無も言わせないという力と権威に満ちた子どもたちへの呼び掛けなのです。家庭の子どもが対象だと思いますが、あるいは若者たちの教育の場での教師からの呼び掛けと取ってもよいでしょう。
私は、マイホーム主義の父というよりは、かつての家父長的な存在を感じています。続く「分別をわきまえるために、耳を傾けよ。」  「分別」という言葉がのっけから来ていることから、共同体の一人前の構成員になる、つまり社会的に公認される成人として迎えられるためには、と、解釈します。言いかえれば社会的に知者として認められるための十分条件を手に入れる秘訣を教えようと語り掛けてくれるのが父なのです。
 続くここでは、今日のテキストは十節からです。「わが子よ、聞け、わたしの言うことを受け入れよ。/そうすれば、命の年月は増す。」と断言してきます。11節、「わたしはあなたに知恵の道を教え/まっすぐな道にあなたを導いた。」 と。「わが子よ」は、個人への呼び掛けです。わたしの手のひらにあなたを刻むと断言する神の愛がのしかかってきそうです。一方悪事を働く者たちの本質を捕らえて、「彼らは悪事をはたらかずには床に就かず/他人をつまずかせなければ熟睡できない。」 と指摘しています。18節、「神に従う人の道は輝き出る光/進むほどに光は増し、真昼の輝きとなる。」 ここまで読んでいると喜びのあまり跳んで跳ねたくなりますよね。
 が、次の瞬間、自分自身の今の現実に愕然としそうになります。神さまのあまりにも尊い御言葉と私の現実の無残さに怯んでしまいそうです。
 こんな時、「コヘレトの言葉」の冒頭「なんという空しさ、すべては空しい」が、あるいはヨブの「神は髪の毛一筋ほどのことでわたしを傷つけ/理由もなくわたしに傷を加えられる」が、突然口を突いて出てきたりするのです。知恵文学(「ヨブ記」、「箴言」、 「コヘレトの言葉」、 という三本立て興行)の奥行の深さが突然見えてくるのがこんな時なのです。信仰に生きようとすればするほど苦悩が増えてきたり、無力感や虚無感に襲われたりする。まさにその時、知恵文学の全体性が必要になるのです。
 と言うことは、「父の諭し」は、単なる家父長の諭しではありません。私どもキリスト者にとって、父なる神は、三位一体の神であります。私どもは旧約聖書から新約へと常にジャンプしなければなりません。イエスさまと向き合っているか否かが肝心。測り知れない神の愛の豊かさの中で、つまり苦悩しながらも神の愛に生きる道が見えてくるのです。
 その時、知恵の文学の全体性が説得力を持って迫ってくるのです。苦悩しながらそのままでいい、生きよ、という大きな呼び掛けが聞こえています。
 もう一度、10節に目を注いでみましょう。

   わが子よ、聞け、わたしの言うことを受け入れよ。
   そうすれば、命の年月は増す。
   わたしはあなたに知恵の道を教え
   まっすぐな道にあなたを導いた。

 祈りましょう。

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