自由にする
ヨハネによる福音書8章31〜38節
 11月も中旬に入りました。今年は庭の(と言ってもお借りしている土地です)が、皇帝ダリヤの背が伸びないまま、台風がやってきて、もう咲かないなあ、ここで四年目だからもう球根が疲れてしまったんだろうな、と思っていたのですが、11月に入ってから急に背が伸びて蕾がついて膨らみ、11日(火)にゆったりと、おおらかに、薄紫の大輪が開いたので、「ありがとう」と挨拶しました。そして木曜日早朝、京都に出掛けました。
 昼前に東山にある浄土宗の永観堂を訪れました。まだ咲き始めとの情報でしたが、いえいえ、見事な紅葉です。正門から入った途端、真っ赤な紅葉に目を奪われました。年々温暖化のせいで時期が遅れがちですが、わあっと思わず声を上げてしまいました。釈迦堂、多宝塔、臥竜廊などたくさんの建造物が、岩垣もみじの中にやさしく佇み調和していて、素足で歩くのが気持ちよく、久しぶりに京都だなあと実感しました。一番奥にある阿弥陀堂の中に、一b足らずの見返り阿弥陀がいらっしゃって、鎌倉時代の修行僧の永観をお首を左の方に傾げて見かえったように、現代の私らをもそっと見返って招いてくださっているように見えました。みなさんは、この見返り阿弥陀を尋ねたことがおありでしょうか。
 その優雅さと慈しみが慕わしく思えましたが、さて、では、ここからどんなドラマが展開されるのでしょうか。少なくても私には、阿弥陀さまの招きの声は聞こえてこなかった、のです。阿弥陀さまが先に招いていてくださる。
 ここまでは、キリスト教も同じだと思います。さて、その後どうなるのかは、それぞれの物語でしょう。
 法然が確立した南無阿弥陀仏をひたすら唱える浄土教でありますが、その極限に浄土真宗があり、親鸞の悪人正機説が見えてきます。
「善人なほもて往生をとぐ。いはんや、悪人をや」です。善人が救われるのであれば、悪人ならなおさら救われないはずはないという衝撃的な救済論です。日本仏教の中でもっとも罪意識が研ぎ澄まされた信仰世界です。もっともキリスト者ならすなおに理解できるでしょう。そして浄土真宗からキリスト教へと回心した人が多いのも頷けることなのです。先ほど召された文芸評論家で牧師であった佐古純一郎先生もその一人であります。私は高野山系の真言宗からキリスト教へと流れてきた者の一人であります。
 さて、今日のテキストは、ヨハネによる福音書8章の31〜38節です。あの石打の刑から逃れた姦通の女の物語から二つ後に出てくる罪をめぐる物語です。ここでも旧約世界の律法に囚われているユダヤ人と真っ向から衝突するイエスさまが描かれています。
 31節、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。」
 32節、「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」 
 新約聖書には真理と自由という言葉がたくさん登場します。そして、この言葉だけが独り歩きして自分勝手に解釈されて広がり、収拾がつかなくなっていますが、イエスさまの言葉をちゃんと見ていると、条件付きなのです。すなわち、「わたしの言葉にとどまるならば」と釘を刺している。イエスさまの言葉に傾聴して実行するならば、という厳しい条件付きなのです。真理という言葉も実際分かったような分からないような、勝手気ままに言いたい放題、したい放題を自由とはき違える結果になりやすい。これはイエスさまの言わんすることとはあまりにも懸け離れている。
 ユダヤ人もそうです.33節、「わたしたちはアブラハムの子孫です。今まで誰かの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」
 彼らユダヤ人エリートたちは、先祖たちがエジプトに逃れて行き、さらにエジプトで労働させられて苦しんだこと、そこから神さまに導かれて脱出した荒野の40年間はどう記憶しているのでしょうか。
 つまりユダヤ社会での支配層に属している彼らには歴史の現実が見えない。苦しむ人々が見えない。ですからイエスさまが激しく切り返すのです。34節、「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」  
と。あなた方ユダヤ人支配層こそ罪を犯していると断言しているのです。罪からの解放とは何か、自由を求める渇きさえまったくないという鈍感なエリートなのだ、と、イエスさまは厳しく発言なさったのです。
 35節、「奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。」 
 ここは二千年前のローマ帝国の奴隷制度が色濃く表れている部分です。主人である父の家とその中にいる子イエスさまという比喩なのです。当時の奴隷は、主人の意志しだいで売り買いされて、どこの家にうつされるのか自分で決定する権利はなかった。命の保証がなかった。しかしイエスさまはこの地上の総てで臨在なさっているのです。
 36節、「だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」
 イエスさまの論争の仕方は、相手が仕掛けた質問に込められた誘い水には乗らない。そうではなくて相手が質問した質問に全く違った視点からナイフを入れて、問題の所在をはっきりさせて相手の罪を明るみに晒して罪と真向かうことを教えるのです。だから続けて37節では、答えています。「あなたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。」。 
 さらにダメ押しをしています。37節後半、「わたしの言葉を受け入れないからである。」 と。一見飛躍していてどういうことかと違和感を覚える人もいらっしゃることでしょう。その揺らぎがイエスさまの逆説的な誘い水なのです。「言葉を受け入れる」とはどんなことなのかとふと立ち止まる。そこから考えることが、揺らぎが始まるのです。
 ここでイエスさまは、決定的な謎掛けをします。38節、「わたしは父のもとで見たことをはなしている。」 そういえば35節の後半でも、「子はいつまでもいる」と答えています。分かりやすいけれども、よく考えるとこれもどういうことか分からなくなります。先ほど言いましたように、家とは父なる神が支配しているこの地上のすべての地のことなのです。それに比べて、三八節後半は、「ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。 これは明らかに肉体的な血筋上の父親のことです。律法に従っているユダヤ人のことです。地上的、即物的な自分らの利得に囚われた者の考え方しかできていない。天上的なるものと地上にしがみついている者の考えでは勝負にならない、のです。
 さらに続く39節以下の対立はもう話にもならない。終止符は184頁上段の58節で打たれたのです。
 すなわち、謎々の究極の言葉が彼らを打ちのめした。そして十字架の処刑へと引き摺られて行く道をも用意することになるのです。その言葉とは、58節、「「はっきり言っておく。『アブラハムが生まれるが前から、わたしはある』。」 この言葉こそ創世記第1章1節に重なるのです。「初めに、神は天地を想像された」というこの神が私イエスさまと重なっているのです。
 59節、「すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。」
 ここも姦通の女を石打刑にしようとするユダヤ人たちと同じ行動なのです。
 この男イエスは、「唯一なる神、創造者なる神とは私なのだ」とわめいて神を冒涜するとんでもない奴だ、殺せ、殺そうと襲いかかったのです。
 そしてイエスさまは、彼らには真理が分からないと断言するのです。183頁44節で、イエスさまは彼らをあからさまに罵り、断罪します。「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって真理をよりどころとしない。彼の内には真理がないからだ。」 と。
 ここからが結論です。「真理はあなたたちを自由にする」とは、勝手気ままな野放しの生き方のことではありません。自由にされた者たちの人生とは、神のみに従って生きる喜びを感謝し、隣人を愛する道を全力で歩み続けることなのです。わたしは道であり真理であり光であると断言なさっているイエスさまを主であると告白して生きること、そこに見えている平和の砦を築くことこそ、21世紀の私どもに課せられた託された義務なのです。
 自由は、主イエスさまが与えてくださったのであり、その喜びを生き抜いて行きましょう。
 祈ります。
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