わたしの顔を尋ね
詩編27編7〜10節
 先週11月2日の召天記念礼拝では、「主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い」という有名な詩編23編を取り上げました。
 今週は続いて27編です。この詩(ポエトリー)は、前半(1〜6節)の神への賛美と信頼、後半(7〜14節)の訴えという二部構成です。前半と後半では、一見別々の詩に見えますが、丁寧に読んでいると?がっていることが分かります。前半は、平和時に於ける神への信頼と賛美であり、後半は緊急時、非常時に於ける訴えであり、人生の苦悩の現場であります。  
 そしてこれが何よりもダビデが詠んだ詩だとすれば、ダビデの生涯の出来事と重なることに思い当たる。が、それ以上に私どもの人生の現実とぴったり重なることに気が付きます。
 ことに苦難の現場に立たされた時、7節、「主よ、呼び求めるわたしの声を聞き/憐れんで、わたしに答えてください」は、みなさんも思い当たることが何度かあったことでしょう。あるいは今日、この叫びと訴えの現場にいらっしゃるのかもしれません。
 続く8節、「心よ、主はお前に言われる。/『私の顔を尋ね求めよ』と。/主よ、わたしは御顔を尋ね求めます。」 は、ずきんと突き刺さってくる部分です。
 何故かと言えば、旧約時代に「主の御顔」とは何であったのかを考えずにはいられないからです。イスラエルが王国を建てた時代も、王とは権威と力そのものの象徴であり、神によって油注がれ祝福された存在でありました。臣下(家来)は王の前に出るとき、恐れ多くて顔を地に伏せて真向かったのであります。大岡越前守に呼び出された者と同じ恭順の姿勢です。
 大体現在でも、「彼はこの辺りの顔だ」と言えばあるイメージが浮かび上がります。アメリカの会社で、ボスと言えば社長のことです。トップにいる人物のことです。漢字では顔役と表記します。
 私どもは、「死ぬ前に一目だけでいい、会いたい」という台詞をしばしば耳にします。この場合には、まっ先に顔を見たいということです。葬儀の時、最後の出棺のとき、棺の扉窓からご遺体のお顔を見てお別れします。懐かしいアルバムを開いたとき、見詰めるのは真っ先に顔です。身分証明書、履歴書でも顔写真は外せないものです。
 では、なぜ顔なのでしょうか。改めて顔って何かと考えてみると、顔はその人の人格の象徴であり実体なのです。他の動物と比べてもっとも発達した部分が人間の頭部(頭)です。普通「頭がいい」と言う時、頭の恰好がいいという意味ではありません。頭の働きがいいという褒め言葉です。見る、聞く、話す、考える、感じるすべての働きはここにある。すなわち目、口、鼻、耳、脳はこの顔の部分に集中しているのです。だからその人を想起する手掛かりとして肖像やデスマスクを残したりするのです。
 ひれ伏した臣下は、「面を挙げよ」と言われて、初めて王を仰ぎ見る。それは光栄なのです。なぜなら王の顔は聖なるものと義なるもの(正義)の象徴だからです。旧約聖書を開いていると、神の臨在の場に出ても神の御顔を見ることはできません。神は「在って在るもの」ですが、その御顔を見たら罪あるものは死ぬと恐れられたのです。
 しかし、出エジプト記を思い出してください。例外があるのです。もっとも偉大な預言者モーセの場合です。出エジプト33章11節には驚くべき場面があります。149頁、「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。」 とあります。新約時代に入れば神の独り子イエスさまとまっすぐにまみえて関係を生きられるようになったのですが、旧約の時代にはむずかしかった。
 が、8節の3行目以下は、「主よ、私は御顔を尋ね求めます」。続く9節では、「御顔を隠すことなく、怒ることなく/あなたの僕を退けないでください。」と答えています。
 罪あるものが神の顔を見ることは死をもたらす恐怖を覚悟することであった時代なのです。いくら主に祝福されたダビデとはいえ、「わたしは御顔を尋ね求めます」と答えたということは驚くべき勇敢な決断であり、神に対する全き委ねなくしては到底なしえない行動であるのです。
 続く、「あなたはわたしの助け。/救いの神よ、わたしを離れないでください。/見捨てないでください。」 こんな祈りができるなんて羨ましい。私どもは、口では神への服従と言いながら、たちまちそこから離れてしまうのです。しかし、信仰とはそんなに甘いものではない。
 十戒の第一の戒めを想起してください。「あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない」。 神への全き委ねとは、こういう厳しさを守り抜くことなのです。が今一番警戒しなければならないことが、自分を誇るばかりか自分自身を神にする、絶対化することなのです。私どもは、いつのまにか神から遠く離れてはいないでしょうか。
 にも拘わらず、聖なる義なる神さまの御顔を仰ぎ見たいと思いませんか。思うではない、見たい、会いたい、顔と顔を合わせたいと熱望しないかぎり、苦悩の現場を耐える力を与えられないのです。私どもの内部に神さまのの霊が与えれていると確信できない好い加減な信仰では、これからの地球的危機を生き抜くことはできないでしょう。
 さて、私は、最近立て続けにキリスト教関係の本を読んでいますが「、神への服従という視点から興味深かったのは、吉川弘文館刊、宮崎賢太郎著『カクレキリシタンの実像―日本人のキリスト教理解と受容』(2014年)です。「カクレキリシタン」と全部片仮名表記です。普通は「カクレ」は「隠れ」と漢字の(いん)と平仮名の「れ」と表記しますが、全部片仮名です。これにはいろいろ理由があります。彼らが自ら「隠れキリシタン」となのっていたのではありません。もし名乗っていたのなら隠れていられません。隠れていて「隠れキリシタン」と名乗ったら自己矛盾になってしみます。この名称は外側の学者や研究者たちが作った新造語であったのです。さらに「離れキリシタン」という名称もあります。これはカトリック側が作った新造語であり、戻らない集団に対する差別語であったのです。
 みなさんは「隠れキリシタン」と言われるとある想像をするでしょう。江戸時代、世界史上でも稀な苛酷なキリスト教弾圧の圧政下にも拘わらず、教職も礼拝堂もなく、地下信仰を守り抜いた純粋なキリスト教徒たちの歴史を想像なさることと思います。
 40年前まで私もそう信じてきました。その底には島原の乱で立ち上がったが、幕府の圧倒的な軍勢によって全滅させられた天草四郎時貞と農民漁民キリシタンのイメージがあったのです。四国学院大学時代に日本史専門のクリスチャンのk教授によって、「あれは農民一揆であった」と指摘されて以来、隠れキリシタンの歴史の実像が次々に明るみに出されるようになったのです。「隠れキリシタン」とは、そうあってほしいと願った、外側からの浪漫的イメージであった。実像は読み書きができず、代々伝えらえた多くの儀式や祈祷文を必死で暗唱している間になぜそうするのかという意味が分からなくなり、明治になって西洋からの宣教師が現れてもカトリックに戻らなかった集団の自然消滅と解散の歴史だったのです。
 彼らは何を守ってきたのかもとうに忘れてしまったのです。神道、仏教、それに西洋でんらいのありがたいオラショ(効き目のある祈り)の混合信仰を守り抜いてきたのです。それはどう見てもキリスト教徒の群れではない。
 つまり唯一なる神に導かれる救いに立つ宗教ではなくなってしまった。キリストもマリアの意味も消え失せてしまったのです。その結果、こうしてとうとう十年ほど前に九州の島々から消滅していった集団だったのです。経済的社会的構造がもたらす地方の貧困や過疎から再生してゆく見通しを建てられずちほうの地域共同体と運命を共にしていったのです。
 最後になりました。もう一度詩編27編の8節の3行目、858頁をご覧ください。
 「主よ、わたしは御顔を尋ね求めます」。
 主の御顔を見てしまったら死ぬ可能性がることを承知で、尋ね求める命懸けの行動に出ること、これこそ生きている信仰の証しなのです。
 周一回教会に顔を出していれば救われている、そんな甘い、好い加減な習慣と、道を求める求道とは相容れない。ましてや、受洗をしてキリスト者になった者、さらにもう一歩踏み込んで、ダビデのように神さまの御顔を尋ね求める全力投球者の行動こそ今私どもに求められている信仰の力なのです。
 祈りましょう。
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