神の家族の食卓
詩編23編 1〜6節
 私が20代末から40代前まで過ごした四国、香川県は、讃岐うどんの県として現在知られていますが、近代日本の中では乃木希典大将を最高司令官として仰いだ陸軍の基地として有名です。が、戦後その騎馬連帯跡に立てられた改革派の四国学院大学が私の職場であり、大学近くにある弘法大師誕生寺とされている善通寺(俗称よしみちさん)が最大の関心事でありました。
 弘法大師は、現在四国八八か所の遍路道の同行二人として知られていて、高野山真言宗のトップスターであります。が、彼とて人間、青春期にはさんざん悩みに悩んだのであり、国立大学を中退し、四国の山川を放浪しながら修行して、ついに親族肉親から猛反対されながらも出家して仏教僧として生きることを宣言したのです。その出家宣言書が797年(延暦16)平安時代初期の『三教指帰』です。 三つの教え、指さして帰ると書きます。三つの教えとは、儒教、道教、仏教です。神道がありません。なぜ神道がないのかと言えば神道には教義(理論体系)がないことと、すでに仏教と神道は習合(混合)してしまっていたからです。結局仏教に帰る、仏教を生きる道へと出発したのです。空と海とが合体した幻を見て空海と名乗ったきっかけこそ室戸岬の洞窟での修行だった。24歳でした。
 後に難解な仏教を解説した『秘蔵宝?』(ひぞうほうやく)(830年、天長7)、57歳の中で、あの有名な
   生まれ生まれ生まれて生の初めに暗く
   死に死に死んで死の終わりに冥し 
 くらしは冥土の冥です。三、四、五、七のリズムに乗せた美しく魅力的な詩(ポエトリー)は、20歳ころの私を虜にしてしまいました。キリスト信仰はまだ青臭く観念的で、肉体に宿っている日本語の音韻の方に引き摺られ易かったことと、ここにうたわれているニヒルな諦めの方に若かった私の絶望感は共鳴したのです。これはどんなに足掻いてみたところで、結局人生は闇の暗さの中を迷い続ける宿命なのだというニヒリズムなのです。ここの実感と復活信仰の相克(戦い)の中に学生時代の私は呻いていた。もちろん空海の言いたいことはその後に力説されている救いにあるのですが、私は、冒頭のこの部分に最も捕らえられてしまったのです。
 これに比べて今日のテキストの明るさ、光と慰めの大きさはなんと言ったらいいのでしょう。詩編23編は、世界中の教会で結婚式と葬儀のときにもっとも多く紐解かれる箇所なのです。皆さんの中には暗唱されているかたもおられることでしょう。文語体であれ口語体であれ、暗唱すればするほどその内容の豊かさに心が満たされていくのです。
 しかも説教で取り上げられるのはほとんど1〜4節です。結婚式、葬儀に相応しい。
 が、私どもは、本日、5、6節に注目しましょう。
 5節、「わたしを苦しめるものを前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。/わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの盃を溢れさせてくださる。」
 作者がダビデであれ別人であれ、キリスト教会がこの詩編を大切にして来たという事実は、ここがキリスト教会の信仰告白と重なっているという証明なのです。4節の「死の陰の谷を行くときも」とあるように、人生は常に試練と危機に襲われる。何度も死の陰の谷に突き落とされ、その谷底を歩かされるのですが、ここが空海の詩(ポエトリー)の冒頭「生まれ生まれ生まれて生の初めに暗く」とは決定的に異なる。4節の2行目以下、「わたしは災いを恐れない。/あなたがわたしと共にいてくださる」と言い切っているのです。しかも5節、「わたしを苦しめる者を前にしても/食卓を整えてくださる」のです。腹が空いては戦はできぬ」という地上的即物的次元ではありません。どのような苦難のときにも豊かな食卓が用意されるということは、主の食卓に招かれるという事実を意味しているのです。主と共に囲む食卓はなんと楽しい喜ばしい出来事でしょう。そこはさらに単なる食事を越えた、聖餐式への招きでもあるのです。主と共に死んで甦るその現場なのです。続く「私の頭に香油を注ぎ」とは、主の祝福を意味しています。ですから続く「わたしの杯を溢れさせてくださる」は、永遠の生を約束された喜びのことです。
 こうして5節全体が水が染み入るように私どもの心に広がってくるのです。
 その時、私どもキリスト者は、6節のように賛美せずにはいられません。6節、「命のある限り/恵みと慈しみはいつも私を追う。/主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう」と。
 「主の家に帰り」とは、現在の私どもは、主の体である教会に自覚的に戻ることなのです。教会の中に生き甲斐の根拠がなければ毎週礼拝に来ることは単なる習慣に過ぎない。そうではなくて、一人一人が自覚的に戻る家なのです。ということは、死んで主の身元に帰ることの先取りなのです。
 ですから死んだら肉親に会えるのはもちろんですが、それが復活信仰の第一目的ではない。神の身元の教会に迎えられる喜びなのです。
 ですからどんな姿で、どのように復活するのかを考えることは意味がない。それらの地上的即物的な時間、空間概念を越えた、つまり私どもの論理を越えた次元にある神の教会が待っているのです。
 神の家族として、地上的な人種、国籍、文化を越えた神の家族という大きな大きな出会いと再会の喜びという新しい出発が待っているのです。私どものほんとうの国籍は天にあるのです。教会墓地がほしいと思う理由はここにあるのです。あの立て看板の下の紫式部の茂みのあたりに設けたらいかがでしょうか。
 最後になりました。結論です。
 復活信仰に生きる私どもキリスト者は、神さまにすべてを委ねる信仰に立つとき、ほんとうの安心と歓喜に包まれて、聞いたことがない天使たちの壮大な美しい合唱に迎えれるのです。そんな神の国の先取りが今日の記念礼拝であり、兄弟姉妹の集まりなのです。
 祈りましょう。
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