王はどこに行ったか
列王記下 19章1〜13節
 金曜日の朝、小林のおばあちゃんの歌碑の前のフェンスの内側に植わっているランタナ(七変化)がフェンスから体を乗り出して見事に咲いています。ご近所から通行の妨げになると忠告をまた出される前にと思って、花と枝を切りました。ランタナはもともとアフリカ原産ですから土師の気候にぴったり、旺盛な成長ぶり。その時、比較的大きな緑色の蟷螂(カマキリ)が一匹枝にしがみついたまま出てきました。蟷螂ちゃんにしたら不意打ちだった。逃げる暇もなく眩しい太陽の光の下に晒されて茫然としていたようです。
 私にとっても不意打ちであり、どうしたらうまく離してやれるのかと一瞬とまどった。ご存知のように蟷螂はとても掴みにくい。二本の長い斧で抵抗してきます。が、私も必死の善意で捕まえて離してやりました。ほっとして玄関にいっぱいランタナや赤マンマをガラス器に活けて、「秋だなあ」と一息付いたと思いきや、髪の毛に違和感を覚えました。なんと当の蟷螂が頭の毛にしがみついている。どうして、なぜと考えている暇はありません。ようやっと捕まえて台所から再び離しましたが、今回はさっきよりももっと茫然自失状態。もしかしたら自慢の斧を失ったのかと思い、心痛めました。しばらくじっと見詰めていました。どうにかしてローズマリーの根本まで行き着けますようにと祈りながら。まるで夢遊病者のようにふわりふらり痛々しく這って行きましたが、無事辿り着きました。その後どうなったかは、報告がありません。
 蟷螂は私に泣きながら、「助けてください」と言ったわけではありません。私も蟷螂一匹保護する方法を知らない。蜘蛛やトカゲや蝶々の住処も知らない。人間は自分に害を加えない限り、小さな自然を一方的に「美しい、かわいい」などと言っているにすぎません。害虫、益虫とか、食べられる、食べられないとか、自己中です。一方で、大自然が牙を剥いた途端、地震、噴火、洪水、山崩れなどが襲いかかり、人間はたちまち恐怖と無力感に陥る。
 どうやら世界を創られた神さまは、自然と人間のふたつの世界を創られた時からこの二つの世界を動かしている原理も二つ創られた。神様が人間に被造物を管理する重い権限を委託されたのは事実です。が、世界を支配できると思い上がることは人間の傲慢として赦さなかったのです。
 というわけで、蟷螂一匹との出会いがきっかけで、金曜日の朝、ヨブ記の38から41章までを再読しました。神さまに自分の(正)義を主張して止まないヨブに対して、神さまは沈黙したまま、ただヨブの眼前に大きな自然界の凄まじい弱肉強食、論理で説明できない不条理な自然界の姿をスクリーンに大きく映し出したのです。あの怪物レビヤタン、野生ロバ、ダチョウ、ライオンが暴れまわる海や地上、光と闇とが写し出される。つまり神さまは自然界と人間界全体の本当の支配者なのです。それを知った時、ヨブは、答えないことを通して答えられた神さまに気が付く。人間は被造物であり、神さまとの人格的関係性の中でのみ、ほんとうの生きる喜びがあるということを。
 では、世界のほんとうの支配者である神さまと列王記とはどういう関係にあるのかとみなさんは、もう考えていることでしょう。
 そうです。今日の主題は、私ども人間と創造者である神さまとの関係をもう一度考えることなのです。
 9月2日の礼拝では、列王記上の18章をテキストに「小さな雲」と題して、アハブ王時代、神さまが雨を大地に注いで下さった。その時の全能の主の奇跡についてお話しました。今日はその息子ヒゼキア王時代のユダ王国が強大なアッシリアの王センナケリブの軍隊に包囲されてにっちもさっちも行かない状況に立たされたとき、ヒゼキア王はどうしたか、という絶体絶命の崖っぷちの人間の行動が描かれています。
 だいたいヒゼキア王とはどんな人物だったか。ヒゼキア王と言えば、アッシリアにエルサレムが包囲された時、籠城を覚悟して城内に水道のトンネルを創った王として記憶されている。四年前にエルサレムを訪れた時、2600余り以前の今も残っているトンネルに水がどくどくと流れている事実に感動しました。が、いざ入ってみたら、真っ暗闇、電燈の灯りまったくなし、膝上までつかる水、急流、低くて頭がぶつかる天井、進むも闇、引き返すのも闇、不安と恐怖の中で立ち往生してしまったことが忘れられません。日本では考えられない。観光客の安全への配慮などまったく考慮しないイスラエルのありかたに不信感さえ覚えたものです。
 本来に戻ります。
 ヒゼキアは、アハズ王の息子、25歳で王位を継いだ。29年間ユダ王国を治めた(前728から700年)。王位につくと同時に神殿修復を始め、偶像を破壊して宗教改革を行った。政治的外交的には、エジプトとアッシリアという大国の間で苦境に立たされ困難を極めさせられた。父アハズは、親アッシリアであったが、息子のヒゼキアは反アッシリアの立場に立ってエジプトと同盟を結ぼうとしたが、預言者のイザヤはこれに反対した。その間アシリアのサルゴンU世はユダ王国に接する地中海沿岸の諸国を侵略した。さらにその息子センナケブリもペリシテに襲いかかり降伏させた。ヒゼキアはエルサレムがついに占領されるのを恐れて貢物を差し出したが、イザヤは反対する。アッシリアはエルサレムを包囲して、大声をあげて威嚇し、アシリアの武力的勝利を論理的に語った。ヒゼキアは身動きもできず、ただただ神の救いを信じて祈るのみだった。
 ヒゼキアは言った。19章3節、「今日は苦しみと、懲らしめと、辱めの日、胎児は産道に達したが、これを産み出す力がない。」
 4節、「ここに残っているもののために祈ってほしい」と。
 5節、これを聞いたイザヤは答えた。「『主なる神はこう言われる。あなたは、アッシリアの王の従者たちがわたしを冒涜する言葉を聞いても、恐れてはならない。見よ、わたしは彼の中に霊を送り、彼がうわさを聞いて自分の地に引き返すようにする。彼はその地で剣にかけられて倒される』」と。
 ただし、聖書は、そこからすぐに結論へとは行かない。10節以下、従者ラブ・シャケの脅しと論理の展開はアシリアの圧倒的な武力の前には降伏しかないことを語るのです。12節後半、「これらの諸国の神々は彼らを救いえたであろうか。」 13節、「ハマトの王、アルパドの王、セファルワイムの町の王、ヘナやイワの王はどこに行ったのか。」
 反論のしようもなかったのです。圧倒的な強大な武力を誇るアッシリアの前に地中海沿岸の国や町はことごとく滅亡していったのです。後は風前の灯、エルサレムの滅亡が迫っている。これぞ辱めの日なのです。
 ヒゼキアは、14節、神殿に上って行って祈った。地上の現実の論理は武力に尽きる。21世紀の今なお、この現実は武力に左右されそうな気配です。ヒゼキアはどんな祈りを献げたのでしょうか。
 17節、「主よ、確かにアッシリアの王たちは諸国とその国土を荒らし、」 18節、「その神々を火に投げ込みましたが、それらは神ではなく、木や石であって、人間が手で造ったものにすぎません。彼らはこれを滅ぼしてしまいました。」 
 このあとがヒゼキアの信仰告白としての祈りなのです。「わたしたちの神、主よ、どうか今わたしたちを彼の手から救い、地上のすべての王国が、あなただけが主なる神であることを知るに至らせてください。」 
 私ども現在の日本人に決定的に欠けているもの、それがここで鮮明にされています。いざという時の「神も仏もあるものか」と言う時の神とは仏とはなんでしょうか。ヒゼキアが四面楚歌、絶体絶命の極地で明らかにしているもの、それは絶望の極みで神さまにすがるように会話しているそのひたすらな信仰の姿であります。「あなただけが主なる神であるあることを知るに至らせてください」
 自分たちだけを救ってくれとは言っていない。「地上のすべての王国が」と言っている。これは伝道の祈りでもあるのです。
 私どもの人生何度かこういう極地に立たされました。若い方はこれから立たされるかもしれません。武力と論理で自己正当化をしてくるこの世のレビヤタンに妥協してはなりません。
 神を神とする信仰を貫いて生き抜くこと、これが私どもの今を歩む道なのです。
 祈ります。
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