小さい雲
テキスト 列王記上 18章41〜46節
 今年の夏も、暑い暑い乾ら乾らの天気日が続きましたが、気象庁によるとそうではなくて、雨が多かった。その理由は空間的な一か所特定のゲリラ豪雨、あるいは時間的な一か所時間集中豪雨の結果、雨量が多かっのだと納得しました。
 そして急に秋の気配、赤とんぼが舞い、彫刻された火の花・曼珠沙華の競演。そして改めて台風の来襲となりました。
 花が終わって茶色く黒ずんだ曼珠沙華の道を歩みながら、人生の夕焼け、黄昏が射程に入ったなあと感じている今年の初秋の私です。
 一方で、いいや、まだまだ、これからもうひと踏ん張り、もう一回花を咲かせなきゃあ、といろいろつくろっていること自体、ターミナルが近い証拠でしょう。それよりは、成熟した人生の実りの季節を迎えたことを喜んで受け入れ、一日一日をかつてないほど深く豊かに生きて行こうと思っています。活字の大きな本を読み、手摺りに触れながら一歩一歩階段を上がり下りる。聖書も大判に変えました。幼少期、青年期、壮年期の人生をていねいに振り返って、神さまから与えられた恵みを感謝しようと思っています。思い出したくないけれども忘れられないことも、神さまの恵みの光の中で振り返ったら、きっと新しい深い地層と意味を見せてくれることでしょう。力に満ちた過ぎ行くひと時の青春ではなく、恵みに満たされた持続する青春が今の私を包み始めていると断言できる所まで、祈りつつ歩み始めました。後期高齢者などという愛情のない行政用語は要りません。成熟という豊かな季節を恵みとして与えられた事実を、感謝して受け止めればいいのです。 そして、人生のいろいろな季節を恵みとして受け止めている私どもの共同体がすなわち神さまのブドウ園なのです。ぶどうの実がもっと増えるようにと祈りつづけている毎日なのです。
 さて、今日のテキストは、旧約の列王記の18章、小見出しは、「エリヤとバウルの預言者」です。士師記、サムエル記、列王記、歴代誌、「みなさんはどこがおもしろいですか」、 と問われたら戸惑いますか。子供向けに再編集され纏められたお話物語以外ほとんど面白くない。旧約の、楽園追放、エジプトでの奴隷としての労働、脱出、カナンでの領土の侵犯、侵略、戦争ばかり。おそらく人間が辿ってきた事実はこういうものなのでしょう。が、そうだとしたら歴史って何でしょうか。学べば学ぶほど絶望してしまいそうです。しかもなぜこれが旧約聖書なのでしょうか。
 じつは、聖書は大人になればなるほど、しっかり学べる書物です。とくに歴史書は、神さまのご意志が一貫して貫かれている。
 神さまが選んで契約して下さったイスラエルという部族連合が、神さまから与えられた契約を裏切り、背き続ける事実にもかかわらず、イスラエルに「立ち返れ」と呼びかけ続ける神さまの終わりがなさそうな繰り返しに飽きてしまいそうにさえなります。
 しかし、立ち止まって考えてみてください。「おや、これって、人間の実態だな、私ども一人一人の人生もこの通りだ」と気付いた時から、私どもの、命がけの救いのドラマが始まった。そしてイエスさまこそキリストだと告白したのです。そこからキリスト者としてどう生きるべきかという宿題を抱えて生きている。
 ここまで辿り着いた時、旧約の歴史物語が私の問題として、しかも信仰とは何かという課題を新たに抱え、にわかに現実味を帯びて迫ってくるのです。
 今日の列王記18章は、まさに神(ヤハウエ)と異教の神(バアル)とは何か、どっちつかずに迷っている分裂王国イスラエルの現場で預言者エリヤがこの問いにどう立ち向かったのかを、そのカルメル山での戦いを活写している劇的な場面です。神に背いたイスラエルに旱魃という裁きを下したヤハウエが、三年目にエリヤに臨んで、18章1節「行ってアハブの前に姿を現せ。わたしはこの地の面に雨を降らせる。」 と。日本の雨乞いは、人間の側からの祈りや踊りですが、旧約の神は、神の側からの雨を降らせる意志の言葉と行為なのです。イスラエル王のアハブは、サマリアの神殿を破壊して異教の神を崇める祭壇を造って祈祷し犠牲を献げる儀式を行っていた。これが惨憺たるイスラエルの現実であり、そして現代の私どもの現実でもある。
 今日のテキストの旱魃と雨の到来の舞台は、後ろの地図の5「南北王国時代」をお開きください。地中海に面したシドンとサレプタは一番上(北)です。エリヤを世話したやもめのいる場所がサレプタです。ずっと下がってガリラヤ、その下(南)にキション川、そして、お待ちかねのカルメル山です。19節、「ここに450人のバアル預言者、400人のアシェラの預言者が集められ、ただひとりの預言者エリヤとの犠牲の儀式の対決が展開されました。どっちつかずに迷っている民は、真実の神がどうお応えになられるのかを固唾を呑んで見守っていましたが、その結果はご存知の通りです。38節「主の火が降って、」そこにあるものを焼き、なめ尽くしたのです。40節、「民が彼らを捕らえると、エリヤは彼らをキション川に連れて行って殺した」と。
 エリヤは神に背いたアハブ王に言った。41節、「上って行って飲み食いしなさい。激しい雨の音が聞こえる」と。カルメル山は海抜490メートル。頂上から地中海が見える。エリヤは従者に言った。43節、「海の方をよく見なさい」。 従者は「何もありません」と答えた。44節、「七度目に、従者は言った。『御覧ください。手のひらほどの小さい雲が海のかなたから上ってきます。』
 「何もありません」と六度も繰り返された従者の答え。それでも「膝の間に顔をうずめたまま」耳を傾けていたエリヤには、激しい雨の音が聞こえていたのです。待って待って待っていたから雨が降ってくる。それは日本の雨乞いです。そうではない、まっ先に「主の言葉がエリヤに臨んだ。『わたしはこの地の面に雨を降らせる』」 と。そして激しい雨の音を聞いていたのです。ここには信仰の確信というものの姿が描かれています。まだ見ていないことを信じるという現実を超えた現実が与えられているのです。
 ところで、預言者とは、神に代わって神の民に向かって語る人であります。が、ここで注意しなければならないのは、バアルの預言者もアシェラの預言者も結集していて、対するのはたった一人のヤハウエの預言者エリヤだけだったのです。民はどっちつかずで迷っていた。新約の時代も同じです。にせ教師、偽キリストがあちこちに出現して民を惑わせたのです。信仰を持続することの難しさを思う時、自分の力を誇ってはなりません。本年度の標語が週報の欄外に書かれています。「本当に重要なことを見分けられるように」。 
 テキストに戻りましょう。17章8節以下に出てくるサレプタのやもめは、アハブ王支配の国家構造の一番下に抛り出されています。このやもめは名前が出ていません。このやもめは私どもの身近にもいるはずです。このやもめの言葉、17章12節「あなたの神、主は生きておられます」というこの言葉は当時の挨拶の言葉でもあったらしいのですが、この女の場合は、信仰告白だと思います。16節、エリヤによって告げられた言葉とおり、「壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。」 のです。神はエリヤを通してイスラエルの立ち返りを忍耐して待ち続けていたのです。
 エリヤが聞いていたのは、激しい雨の音であり、従者はようやっと「手のひらほどの小さい雲が海のかなたから上って来」るのを発見したのです。従者が見たものが現象的現実の光景です。が、エリヤはずっと前から「激しい雨の音」を聞いていた。この雨の音の方が確かな現実なのです。つまり預言者は、現象の先の先の方にこれから起こる現実を見る力が与えられるのです。
 アハブ王は馬を車につないで下っていく準備にとりかかっています。45節、「そうこうするうちに、空は厚い雲に覆われて暗くなり、風も出て来て、激しい雨になった」。 それこそ激しい旱魃に苦しめられていた王国は、万歳を叫びたくなる感動に包まれました。両手を空に突き上げて「主よ」と大声でよばわる民の声が洪水のように溢れだしています。
 46節、「主の御手がエリヤに臨んだので、エリヤは裾をからげてイズレエルの堺までアハブの先を走って行った。」 のです。イズレエルはアハブの宮殿がある場所です。地上の王を引っ張るかのように激しい雨のなかを走っていくアハブは、まさに神の代理人です。神の御手に支えられているのです。地上の権力をはるかに超越している真の支配者が誰であるかをこの場面は描き切っているのです。
 私どもの信仰もここで試されています。歴史を貫いている神さまの御意志をほんとうに分かっているのか、と。
 教会が主の体であるというもったいない形容を与えてくださった主に感謝して、「国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり」と唱える教会でありつづけましょう。
 祈ります。

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