逃げてしまった
マルコによる福音書14章43〜52節
 仲秋の名月は水曜日でした。月と地球の距離が一番近い満月なのです。大きなまん丸いお月様でした。ススキと月見饅頭が似合います。
 ごく最近まで、この日が、同時に百舌鳥八幡月見祭りでした。現在は、義務教育の日程上の関係から満月に近い日曜日に代わっています。この祭りがこの近辺の人々の郷愁を駆り立てています。この祭りを目指して土師に帰ってくる家族も大勢います。お年寄りたちも孫に会えるのを楽しみにしています。祭りを盛り上げるのが山車と太鼓です。三年前に初めて八幡の夜のにぎわいを味わいました。次々に集合してくる山車が石段を一気に駆け上がってくる場面が見せどころで、まるで歌舞伎のここぞという名場面に出演しているような高揚した気分になりました。
 子供からお年寄りまでが一体になって月夜に酔い痴れている感じでした。
 これが日本の秋祭りなのです。
 1912年(明治45)に、小学校唱歌として発表された「村祭り」は、私も歌えます。「村の鎮守の神さまの今日はめでたいお祭り日/ドンドンヒャララ ドンヒャララ ドンドンヒャララ ドンヒャララ/朝から聞こえる笛太鼓」という歌詞です。
 けれども、そのために公共のバス、あるいはタクシー、個人のマイカーが交通制限される事実がもたらす不便はどう考えたらいいでしょうか。一昨昨日妻と私の共通の友人I兄が召されました。一昨日の金曜日堺東のフリーメソジスト教団堺教会の前夜式に参加しましたが、昨日の葬儀は交通規制のため行けませんでした。
 本日の主日礼拝もお客さんが横浜、橿原からいらっしゃるので難儀しました。
 鳳教会は山車が礼拝時間に教会前を通るそうです。そして今や全国区になってしまった岸和田のだんじり祭りは、あの方向転換するやりまわしを見ようとして町中が大変な興奮のるつぼと化すようで、城の掘割にあってだんじりのコースから外れている岸和田教会でさえ、礼拝に支障が出るとも聞いています。
 ここ私どもの土師教会もマイカーの信徒もいますから、正直に言いますと教会に来るのに、毎年難儀しています。
 が、私どもキリスト教徒は、主日礼拝をたんたんと守りましょう。そしてみぎわの会の昼食を楽しみましょう。
 さて、今日のテキストは、マルコによる福音書です。例のごとく作者がどういう人物なのかは全く分かりません。
 おそらくみなさんも同じだと思いますが、私は、学生時代からずっとマルコ伝が一番古くて素朴な書だと思っていましたが、半年前、私の就任式に来てくださった工藤弘志牧師から、最新の研究によるとマルコ伝が一番新しい福音書だという学説が注目されているというのです。たった16章しかない、説明が少ない素朴な福音書ではなく、もっとも近代的な文学作品だというのです。たくさんのイエス資料を綿密に整理してイエスの生涯を劇的に構成しているというのです。そういえば、16章の終わりは、「週の初めの日の朝ごく早く」イエスさまの墓を訪れた女性たちが見たのは、「石は既にわきへ転がしてあっ」て、墓は空っぽだったのです。そこには「白い衣を着た若者が右手に座っていて」、 主はガリラヤで「お目にかかれる」と言ったのです。女性たちは、「墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」。 
 ここで終わっているのです。そのあと「結び一、二」という後になって加筆、補筆された文章がぶらさがっています。そうしないと、中途半端でしまりがない。結論がないとどこが福音なのか分からないからです。ですが、これこそ現代小説の閉じ方の一つです。結論がない結論。ちょんぎられて放り出されたままの終わりとは言えない終わり方。
 じつは私ども平凡な人生ってこれに近いのではないでしょうか。遺書も自叙伝も遺言もない閉じ方です。そこにありありと人生が転がされているのです。
 しかし、聖書の空っぽの墓は、文字通り空っぽでしたが、それこそイエスさまの復活の逆説的な証明だったという決定的な逆説が、背後に隠されていたのです。
 さて、マルコ福音書が提出している二つのテーマがあります。貧しく疲れ果てている民衆を引きつけたもの、それはパン(いっぱい食べること)と「神の国」です。(先週の説教題目は「天の国」でした。)
 食べることは「五千人の給食」と「三千人の給食」という大給食パーテイが繰り広げられ、なお食べ物が残ったとあり、おそらくイエスさまはその後も給食を続けられたはずです。肉体と心の満足は、神の国がどんどん音たてて近づいてくる前段階でしょう。
 では 「神の国」とはどういうものでしょうか。マルコの1章15節、イエスさまはこう宣言しています。ガリラヤでイエスさまは伝道を始めたとき、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と。
 与え続けるイエスさまが再びいらっしゃるのを待ち続ける意味での未来への希望だけでなく、今この現在イエスさまはなお与え続けてくださっていることを実感するときイエスさまの現在は、イスラエルからガリラヤ湖の向こう岸へ異邦人の地へとしばしば歩み入れたように神の国は世界の中に広がって行ったのです。つまり神の国は未来に属すると共に現在進行形でもあるのです。向こう岸へと向かっているイエスさまの船は、弟子や信徒と共にさらなる伝道をする信仰の船であり、船はそのまま教会であり、神の国なのです。この伝道船がもっとも美しく実った時が最後の晩餐であり、自分の体を引き裂いて私どもに血と体を与えてくださり、教会が成立したと断言したいのです。が、残念ながら最後の晩餐は裏切りの現場でもあったのです。イエスさまが自分の体を与えたにも拘わらずです。ここが今日の山場でもあります。イエスさまの弟子たちは、イエスさまの使命を全く理解できなかった。イエスさまはたえず理解されない孤独地獄の中にいらしたのです。ユダにうらぎられてオリーブの林の中で祈っていたときも身近な弟子たちさえ睡魔に勝てず眠り込んでしまった。
 そしてやって来た群衆たちに武力で逮捕されたとき、ある者おそらくペテロが剣を抜いたが立ち迎えなかった。
 そして、50節、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」 なんと後味悪いイエスさまとのお別れだったのでしょう。
 大体作者のマルコはこう書いて何を伝えたかったのでしょうか。先週も伝えましたようにおそらくエルサレム落城直後の絶望の中で、福音とは何か、救いとは何か、教会とは何かをどう伝えるべきかさんざん考え抜いた福音書記者が、それらを伝えようとしてこのマルコ伝を書いたことは確かです。ならばこの「逃げてしまった」という表現にはどんな意味合いが漂っているのでしょうか。主を見捨てたことの後ろめたさでしょうか。卑怯な態度しか取れなかったことへの反省と許しを請う気持ちの表明でしょうか。それだけではなさそうです。ユダに裏切られ、腹心の弟子たちにも全く理解されなかった主イエスさまの壮絶な孤独、神の沈黙の深さを言い表したかったのだと私は確信しています。そういう私どもが今福音を伝えるべく立っているその秘密の根拠を福音書は語っているのです。
 では、51、52節の蛇足のような、ふしぎな付け足しは何を語っているのでしょうか。
 51節、「一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、」 52節、「亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった」。 この若者も「逃げてしまった」のです。が、誰なのかは二千年来の謎です。直弟子ではないとすればますますその正体は不明でしょう。その正体については幾つかのい説がありますが、私はこの福音書の記者自身だと考えています。
 なぜかと言いますと、「逃げてしまった」という恥ずかしい思いをこういう意味合いで付けるとしたらその現場にいた人物でなければならない。しかも他の弟子たちと同様に「逃げてしまったもの」のはずです。弟子たちのみっともない恥ずかしさを描写する後ろめたさも伴っていたでしょう。そのためには弟子たちよりももっとみじめな自分を登場させて、弟子たちにも許しを乞わずにはいられなかった。やがて年老いて、他の福音書記者たちの後にあの事件の辛い耐えられなかったみじめさをその事実を伝えるために必死の思いでこの福音書を書いた本人の告白だったのだと思うのです。おそらく筆者は亜麻布をまとっていたのですから、裕福な階層の自称イエスさまの弟子だったにちがいありません。他の福音書記者のようにではなく、あの事件のあの臨場感を描写したとき、終わりのない終わりを復活のイエスさまとの再会をではなく空っぽの墓の恐怖の現実感を書き止めたのだと思うのです。
 では、なぜこれが福音なのかというと、その秘密は、この福音書に書かれていない、イエスさまの復活が背景にありありとあり、その復活のイエスさまの御前に読み手をお連れしたいという自信があるのです。
 なぜなら復活とは説明されて納得できるものではない。あの女性たちの正気を失った事実こそが復活への入り口だからです。
 「逃げてしまった」弟子たち、そしてマルコ伝の作者、女性たちが立ち上がったあの秘密に預かっている私どもにとって、マルコ福音書は新たな出会いの書になるはずです。短いですから丁寧に丁寧に読み直してみましょう。新たな復活の入り口にあなたは今日招かれているのです。
 祈ります。

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