天の国
マタイによる福音書13章44〜52節
 三年前の9月4日、紀伊半島を襲った豪雨は中部〜南部まで大惨害をもたらしました。明治22年(1889)の十津川の大災害はついに村民168名死亡という悲劇をもたらし北海道へ移住という結果になり、北海道に新十津川村が生まれたのです。
 今年も紀伊半島は豪雨に見舞われました。
 さて、土師に赴任して以来、妻と私の吉野、長谷寺、伊勢、十津川、新宮などへの旅は数回に及びます。
 そして、一昨昨日(さきおととい)、9月4日 今回は私は未明に起きて、五時半に鶴見橋教会の田中寛也牧師の車に乗せていただき、河内長野みぎわ教会で、福島義也牧師の車に乗り換えて、一同五人で那智勝浦井関地区の去年建立した慰霊碑を目指しました。前夜からの雨雲が広がって心配でしたが、どうやら無事に半島を縦断、十時半にはテント張りの慰霊式会場に辿り着けました。
 井関は3年前の9月4日、土石流と豪雨で河が氾濫28名の犠牲者が出て、下流は人家が跡形なく消え失せてしまった。激甚災害です。住宅はすべて新しく建てられていました。地区全体が新しいという事実が、失われたもののあれもこれをも激しく語っていて、ずきずき心が痛む。テントの下の慰霊碑がこれまた新しい。
 11時、紀南教会の関係者22名と教区宣教委員会の牧師6名計28名が集まり、大阪教区宣教委員会主催の大水害追悼礼拝が始まりました。八尾教会の有澤慎一牧師の式辞は、心の籠った熱い説教でした。その後、紀南教会で共に弁当を食して、親交を深めました。紀南教会のIさんが今回の言い出しっぺでこの地区のみなさんの悲しみと鎮魂をしたいと申し出て、その結果教区宣教委員会が去年から実行しているのです。
 再び会場に戻って、さらに3名の牧師が加わり町主催の慰霊式が午後1時半から行われました。関西テレビは、紀南教会を含めて慰霊式を丁寧に取材していました。
 ところで、この町の慰霊式は、私どもの予想に反して無宗教で行われました。政教分離ということらしいのです。
 帰路、車中で、式を振り返り、町主催の慰霊式を無宗教でやるよりは、鎮魂と追悼の深く熱い思いを表現するには、いっそのことキリスト教で全体を行う方がいいのではないかという意見に纏まったのです。教会と行政を結んでいるIさんのお人柄を頼んで来年実行できるようにがんばりたいと思います。
 さて、今日のテキストの最大のテーマは、「天の国」です。私ども日本人キリスト者は、儒教的伝統に培われているので、天というと空のてっぺんあたりを漠然と考えます。地上と全く真逆の地点に神の座を思い描くのです。そのことは不可思議なことではありません。これを現代の文脈で考えればいいのです。これは明らかに反世俗、反日常、反地上と解せばいいでしょう。
 とすれば政治経済優先主義の現代文明に対して、根源的に疑義(疑いと反対)を提出していく信仰的世界がそこに見えてくるはずです。
 と言うことは、神と人間との人格的関係(あなたとあなたと呼び掛け合う二人称世界)を奪い返すことであります。
 ちなみに、「天の国」という表現はマタイによる福音書にのみ出てくる表現です。他の福音書では「神の国」が普通です。と言うことはマタイ福音書が一番ユダヤ的なのです。旧約以来ユダヤ教の世界では、天には何段階もあって一番奥、天の天に神さまの住まいがあると考えてきたからです。つまり反地上的なのです。
 これをもう少し纏めてみたら、どうなるか。私ども現代的な世俗的人間は、生まれることは医学的に説明できる。人間の生は誕生年月日時刻から死亡年月日時刻まで、死後の世界はほんとうはない。極楽浄土も天国も、民衆をたぶらかした涙の谷、宗教的欺瞞。死んだらおしまいだよ、はい、それまでよ、チョン。 という具合です。
 だったら、なぜ死を恐れるのでしょうか。宗教は要らないという人が、なぜ南無阿弥陀仏といざと言うとき、唱えるのでしょうか。
 では、私どもキリスト者は、人生の生をどう捕らえているのでしょう。少し神学的に考えます。そもそも生をどう捉えるかが問題なのです。キリスト教の葬儀が伝道でもあるのはどうしてでしょうか。ズバリ、死が生の終わりだと考えていないからです。そもそも誕生という生の始まりも生の始まりだと考えてはいないのです。歴史を超えた原初に神がいらしてキリストもいらしたという考えそのものが衝撃的なのですが、実はほんとうなのです。
 私は高校の世界史の授業で、歴史以前の歴史があり、その原初から神さまがいらしたと発言して先生のご機嫌を大いに損ねてしまったことがあります。「そのあたりのことは歴史学の対象ではない」と答えた先生と真っ向から世界の理解が違っていることを理解したのです。私どもキリスト者が理解する歴史は、英語でヒストリーと書きますが、これは「彼の物語、ヒズ・ストーリー」、 すなわち大きな彼・神さまの物語(歴史)なのです。
 ならば永遠の命を生きていらっしゃる神さまのご計画によって与えられる誕生から死亡年月日時刻までは、永遠の命のほんの一瞬の生のひと時に過ぎない。と分かるのは、洗礼を受けてからです。
 つまり、私どもの生は、「生前の生」と「地上の生」と「復活後の生」という一貫した生の活動の全存在を指しているのです。私ども人間が自覚できるのは地上の生のみですが、それが終わればチョンチョンのチョンという刹那的な虚無主義とは全く無縁なのです。
 沖縄にいる重元清という私の友人の福音派の牧師は、毎月A4版の「猫の目新聞」を出していますが、いつも猫の目から見た世界のあれこれを面白おかしく書き綴っています。
最新号9月号の「メッセージ」は、「パウロは『復活の力を知り・・・どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです』と語った。しかし、この頃の牧師さんで同じように語る人を知らない。パウロにとってイエス様を信じる事と復活の力を知る事は同じだった。パウロのような伝道者が沖縄に現れるのを期待しますニャー」と書いています。猫の発言を常に聞き取れる異能を与えられているこの重元牧師は、もともと東京農工大出身で、広い野菜畑に録音機を持ち込んで野菜の言葉を録音し続けていた青年でした。その後突然入信しました。野菜や猫と会話できる牧師は、現代の世俗主義に真っ向から戦いを挑んでいる私の好きな牧師さんです。もう30数年お会いしていませんが、仲良しです。
 さて、マタイ福音書13章に出てくるたくさんのたとえ話の中で、44節以下は、「『天の国』のたとえです。』 44節の「畑に宝が隠されている」は、当時大切な宝は地中に埋めておく風習があったのです。日本でも、あの戦争中、地面の下に家財や貴重品を埋めたりしました。防空壕は一時的な倉庫、金庫でもあったのです。「見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」とあります。
 「喜びながら帰り」が目に見えるようです。福音とは喜びの訪れなのです。暗い顔して嫌々ながら受洗する人はありえない。
 私の受洗した福音自由教会は全身洗礼でした。バプテスト教会をお借りしたのですが、受洗式の水面下から体が立ちあがったとき、ステンドグラスの薔薇窓から真っ白な鳩が舞い降りて来たような気がしました。聖霊の訪れだったのかもしれません。
 続いて45節、「「商人が良い真珠を探している」。 44節はたまたま見つけたのですが、45節は積極的に能動的についに探し出したのであります。この場合も、「持ち物をすっかり売り払い」であります。全財産を手放して手に入れたお金で買うものが「天の国」なのです。全財産を売り払って手に入れた「天の国」は、どこにあるのか、それは「あなたの心の中にある」というのがイエスさまの答えの一つであります。見えないものそれでいてありありとあるもの、満腹するもの、喜ばしいもの、そんなものはないと断定する人々に対して、私どもは声高に叫ばなければならない。永遠の命が保証されたのです。あなたと呼びかけてくださるイエスさまとあなたと神に向かって呼びかけることができるとはなんという喜びでしょうか。
 最後に、52節をご覧ください。「だから天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものとを取り出す一家の主人に似ている」と。これは学者とありますが、イエスさまの言葉をちゃんと分かった弟子たちのことです。弟子とは、元来学ぶ者という意味なのです。
 私どもは、毎日曜日教会で礼拝を奉げても、そこに喜びがなかったら、カルチャーセンターの教養講座と変わりません。教会の礼拝は、勉強会場ではない。そうではない。「持ち物をすっかり売り払って」買うもの、それが「天の国」なのです。「神の国」と言っても良い、「御国」と言っても良い。
 それはどこにある今日、あなたの内部に生き生きと息づいているのです。
 喜びのない礼拝は、残念な礼拝です。喜びのあまり踊り出したくなる礼拝をしようではありませんか。なぜなら私どもはみんなイエスさまの弟子、福音が分かった学者なのです。
 そして回りの人々に伝えたくなる共同体、神の体なのです。
 祈りましょう。

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