僕とは呼ばない
ヨハネによる福音書15章11〜17節
 ようやっと一雨来ました。花、野菜はもちろん、人間もほっと一息付けました。雨はちょうどよく降ってくれればいいのですが、世界中が異常気象らしくて、八月上旬、冷房のないポーランドなのに異様な暑さと湿気、おまけに土砂降りの雨に苦しんでいました。
 雨と水は、命と直結しています。
 そして、「命の水」と言えば、すぐにヨハネの黙示録が浮かび上がる人がいらっしゃるでしょう。あるいは、洗礼(バプテスマ)を思い浮かべる人もいるでしょう。
 その反対に、「洪水」と言えば、一週間前の広島市を襲った恐ろしい土砂崩れによる災害が浮かび上がります。いまだに行方不明者の捜索が続いております。一昨日28日の「朝日新聞」夕刊の一面に写真入りで、「ペットと避難一歩前へ」という写真入りの記事がありました。愛犬ラブラドルレトリバーが20日未明、突然暴れ出して異変を知らせたのです。地震などの災害に関して、人間よりも動物の方がすばやく本能的に反応することがあることは知られています。鼠、鳥、鯰などです。ペットとの同行避難が整えられたのは東日本大震災から学んだ結果です。あの時、ペットの餓死、野生化という悲劇が展開されたことを覚えていらっしゃいますか。災害も戦争も人間だけが苦しむのではない。地球環境、被造物全体が苦しむのです。一緒に生きていくことの尊さをもう一度噛み締めさせてくれた記事でした。ペットは、人間の単なる愛玩動物ではなくて、家族の一員なのです。そして、大切な友だちなのです。
 世界を創造された神さまは言われました。「見よ、それは極めて良かった」創世記1章31節を鮮烈に想起させてくれた報道です。
 さて、今日は、人間界の現実について考えさせてくれるテキストであります。
 さんざん目にして口にしてきた言葉、旧新約を通してもっとも目にしてきた単語のひとつが十五節の「僕(しもべ)」です。
 「僕」とは、改めて考えてみますと、ちょっと説明がつかないくらいたくさんの意味を孕んでいます。が、聖書の「僕」が意味する基本は、奴隷のことであります。この意味での「僕」は、現在の日本語においてももう使われなくなった言葉です。実は奴隷制度は、現在の地球の中でもほとんどありえない状況です。が、奴隷的な悲惨な状況は、ないとは言えないのであります。就職難時代到来の中で、いわゆるブラック企業が報道されて、その実態が暴かれたりしています。まさに奴隷的な状況です。少なくても法律的には、奴隷制度を肯定している国家はまず思い当たりません。
 が、二千年前のローマ帝国の歴史の中では奴隷制度はごく当たり前のことであり、市民対奴隷の割合は、1対9だったのです。
 ローマ帝国の繁栄は、こういう基盤によって成り立っていたのです。パウロがこのローマ帝国の中で、奴隷をどう見ていたかは、書簡を通して見えてきます。ローマ市民であったパウロは、奴隷制度を真っ向から批判できない立場にあったにも関わらず、福音を生きる者として奴隷をできるかぎり人間として扱おうとして努力していたことが読み取れます。その結果がリンカーン大統領の奴隷解放となって実現していったのです。千何百年かけて実った戦いだったのです。
 ところで、現在の日本では、男子が自分のことを「僕(ぼく)」と発音して、漢字では「僕(しもべ)」と書き表します。なぜでしょうか。
 15節の僕という漢字は、もともと人偏がなかった。右側の旁りをじっと見ていてください。この部分は象形文字です。左側にいるであろうご主人に向かって脆いている者がいる。この者の頭には刺青があり、尻尾も生えている。まるで獣(けだもの)ですが、人間なので人偏を付けたのです。つまり人間扱いされない、命令されるままに仕える奴隷なのです。この僕(ぼく)という字が、人の前で謙遜する者、すなわち、「ぼく」という一人称になったのです。
 それでは、ヨハネによる福音書に戻りましょう。僕(ぼく)という字で「しもべ」と訳されたのは何故かと言いますと、ギリシア語の原文が、ドーロス「奴隷」だからです。まさにローマ帝国の社会的な構造がここに写し出されているのです。
 すでに学んできましたが、最後の晩餐の説教は、長くて長い。弟子たちとの別れになることを覚悟したイエスさまによる訣別の説教なのです。ヨハネによる福音書はほとんど譬え話がありません。二つしかない。二つともご自身についてであります。すなわち「羊飼い」であり、「ぶどうの木」であります。
 この15章はあまりにも有名な場面ですが、誤解も多い。とくに山場である今日のテキストでは、イエスさまの真意(ほんとうの御心)とは全く違った誤用と誤解がはびこって一人歩きしてしまっています。
 13節です。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」。 ここです。自分が大好きな友のために命を捨てる。親友、同志、仲間。家族はどうでしょうか、恋人はどうでしょうか。会社は、国家は、どうでしょうか。
 友のために自分を献げる、一命を擲つ。そこにはヒロイズムに酔い痴れる自己陶酔がないでしょうか。「これ以上に大きな愛はない」という言葉が、誘惑者の危ない囁きになっていはしないでしょうか。自分を献げるという自己愛に酔っぱらって自殺しようとしていませんか。
 今述べた自己陶酔の愛と、そもそもイエスさまが仰る「自分を愛するように他者を愛する」こととは、「自分の命を捨てる」と言っても、その中身は全く別であって、決定的にずれているのがお分かりになるはずです。
 ここでしっかり聖書を読み直しましょう。
 15章の1から10節までは、「わたしはまことのぶどうの木」であるとイエスさまは、断言される。「わたしにつながっていなさい」と。「あなたがたはぶどうの枝なのだ」と。それをくどいほど繰り返して語っておられる。
 この言葉を前提にして、11節が登場するのです。
 11節、199頁をご覧ください。「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」 12節、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」 と。
 最後の晩餐のテーブルでこの言葉を聞いている弟子たちは、どのような思いでイエスさまの言葉を胸に刻んでいたのでしょうか。弟子の心の動きについては何の描写もありません。
 そして突然、思いがけない言葉が飛び込んできたのです。問題の13節です。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」 それまでのイエスさまの言葉とのつながりはどうなっているのでしょうか、まったく分かりません。テーブルを囲んでいる弟子たちが友である弟子たち同士がお互いの命を捨ててしまったら、どうなるのでしょうか。
 ここの文脈は全く違う。訣別を覚悟したイエスさまが十字架の死を覚悟した別れの言葉であり、残る弟子たちが愛し合うようにとの遺言だったのです。
 イエスさまは、奴隷を解放するために地上に派遣されてきたのです。
 伝道の初期にこのことを明言されています。
 8章34、35節、182頁をご覧ください。
 「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」 35節、「奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。」 36節、「だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」と。
 イエスさまの目的は、奴隷たちの自由への解放だったのです。そのとき初めてイエスさまの友になれるのです。ただしその条件がる。イエスさまの愛に留まること、つながっていることであります。イエスさまは奴隷解放のために、ご自分の命を捨てるのです。私どもが捨てるのではない。神の子イエスさまが命を捨てたのです。
 ここで福音書の成立過程を考えれば、事情は複雑です。復活されたイエスさまに励まされて信仰告白をして誕生したキリスト派、すなわち教会の証しが福音書なのですから、訣別の言葉(遺言)は、そのまま復活の証言でもあるのです。
 私どもがこうして毎週主日礼拝をする意味はここにあるのです。神の言葉に聴従して信仰を告白して、さらに神と共にここにいてお互いに愛し合うという喜びで満たされるのです。
 もう一度十一節を確認しましょう。
「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」。
 「自分の命を捨てること」、 これは神さまの一人子であるイエスさまの命掛けの愛の表現だったのです。
 この圧倒的な愛に満たされて、どう応えて生きぬくのか。これが私どもの仕事なのです。   
 それは自分の命を捨てることではない。お互いに愛し合い、イエスさまの友として認定された喜びを持って生きることなのです。
 さあ、急いで駆け付けましょう、仕事の現場はすぐそこです。

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