敵を愛しなさい
ルカによる福音書6章27〜36節
 「あなたが好きな詩人の名前と作品名一つをあげてください」と言われたら、みなさんは誰の名前と作品名をあげるでしょうか。堺が誇る与謝野晶子、伊東静雄が真っ先に浮かびあがりますか。それとも宮沢賢治、八木重吉、萩原朔太郎、中原中也、金子みすず、まど・みちお、でしょうか。
 私がずっと尊敬している大江満雄という詩人は、もう亡くなっていますが、高知県宿毛市生まれ。昭和前期プロレタリア詩人として出発、戦後はユネスコを支持するキリスト教詩人として注目されました。私がもっとも影響を受けた詩人です。
 私が三〇代の時、「森田さん、あなたの尊敬する詩人は誰ですか」と訊かれました。
 「ええと、明治期ならば北村透谷と山村暮鳥、大正期ならば八木重吉とだれだれ、昭和期ならばだれだれ」と考えながら答えていました。
 すると、満雄は苛立って怒りだし、「大江満雄はどこに行ったのです、大江は」と大声で叫んだのです。
 「詩人とは、大江満雄、私、ただ一人です」。
 その苛立ちと自負、誇りの高さに圧倒されて、私は情けない弟子であることを深く恥じたのであります。
 これを聞けばみなさんは、共観福音書の「それでは、私を誰だと思うか」と訊いて来たイエスさまを想起することでしょう。
 答えはただ一つ。
 「あなたはメシア、生ける神の子です」なのです。
 満雄の死「自戒の二行詩 三篇」という作品があります。紹介します。

   きのう花束をささげた墓に
   石を投げるな。

   私のなかにも
   敵がいる。

   混乱のとき 苦悩のとき
   天にいます父よと祈るな。

 もう一度読んでみます。
 私は特に二篇目が好きです。

   私のなかにも
   敵がいる。

 今日の説教題名は、「敵を愛しなさい」です。ところで「敵」って、どういう意味でしょうか。広辞苑によると、「敵」とは、「自分に害をなすもの」とあります。人間とは限らないでしょう。思想、芸術、権力、宗教、自然、数え切れない。
 みなさんは、「敵」という言葉をいつどこで覚えたか記憶していますか。
 私は、中学校に入ってから初めて、かつて戦時中に、アメリカを指す言葉「鬼畜米英」という表現があることを知りました。鬼、畜生という憎悪感丸出しの表現です。大日本帝国を害する鬼・畜生、すなわち米英だったのです。
 大学生になって初めて私は、「敵」という言葉を実感的に使うようになりました。1960年の4月、同志社大学に入学した私を待っていたのは、政治の嵐でした。高校を卒業するまで文学や美術、映画演劇にほとんどの勢力を費やしていた私には、日米安保条約という国家間協定の政治的意味を本気で考えたことがなかったのです。が、大学に入学したとたんに、日本全体の政治的経済的文化的次元に於いて、大学生であることがどれほどの責任を負っているのかが見えてきたのです。安保に負けたとき、「政権(敵)に挑んで負けた」というひどい挫折感を味わいました。
 その頃、私の敵の概念は、まだ他愛ない青臭いものでしたが、この世には大家族制的権威にしがみついている私の「父親」と「政権」という二つの敵がいるんだという結論に到りました。
 その後、教会生活を通して、人間の原罪それは人間の原罪というものを知った時から、「私の敵は私だ」という段階まで深められて行ったのです。
 おそらく満雄の「敵」も意味は同じでありましょう。
 さて、今日のテキストは、その敵を、いかに、なぜ、愛すべきなのかという神学的意味の解明なのです。その前の部分は有名な平地の説教ですが、その説教の背後にあるもの、それが愛なのです。その愛をどのように実践すべきかを説いているのが、今日のテキストなのです。
 27節をご覧ください。「しかし、わたしの言葉を聞いているあなた方に言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。」 「敵を愛しなさい」というストレートな表現は、ルカ福音書のみにあるのです。愛敵とはとても実行できない事柄ですが、イエスさまが命じる人生の根本的なテーマなのです。そして28〜30節まではその具体的な実行例なのです。あまりにもはっきりしているので、とても実行できそうもないのですが、それは私どもの勝手な結論であって、できないかどうかほんとうは分からないのです。何故なら文字通りの実行をしたことがないからです。
 しかし、この場合の敵は明らかに人間を指しています。思想や芸術などはまた別に扱わなければならないでしょう。私どもの判断は、いつも自己中心主義になってしまって、愛の実行の可能性を自ら閉ざしている場合が多いのです。そこでイエスさまは、そんな閉ざされた考え方からの大転換を命じるのです。
 31節をご覧ください。「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」
 これはキリスト教倫理の黄金律「ゴールデンルール」と呼ばれているものです。えっ、どうしてって思う人もあるでしょう。が、世俗社会で言われているのは、じつはもっと消極的な道徳律です。それは、「人にしてほしくないことを、人にするな」であります。これは復讐(報復)を避けるための世渡り術なのです。つまり、神との関係性の中で生きていく私どもキリスト者とは、全く方向が逆なのです。 
 つまり、31節の「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」は、報いを求めない純粋の愛の働きなのです。
 そんなことできっこないは、人間の現実なのだと簡単に結論を出し易いのですが、そこが問題なのです。実は、聖霊のお助けをいただいて、初めて可能性が広がってくるのです。 みなさんは、三浦綾子の『塩狩峠』をお読みになりましたか。結納のため札幌に向かった鉄道職員・永野信夫は、塩狩峠で暴走しかかった列車から、咄嗟にわが身を線路上に投げ出して列車を止めてお客さんたちの命を救った出来事が描かれています。あれは歴史的事実だったのです。永野信夫はキリスト者だった、のです。この事実は聖霊のお助けによるのです。
 もう一人コルベ神父がいます。日本人には忘れがたい恩人です。その後、アウシュイッツ収容所で餓死刑の身代わりを申し出て命を献げた人物です。
 続く32節以下は、人間の自己中心主義の限界を指摘しています。32節、「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。」 34節、「返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。」
 ということは、報われることを拒む邪気のない実行こそ純粋なのだ、愛とはそうした実践のことだとイエスさまは仰っているのです。
 その結論は35節ではっきり纏められています。「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。」 ここでも俗人は躓きそうになります。「恩を知らない者にも悪人にも、情け深い」なんて不平等だと文句を言いたくなるのです。が、神さまが仰っていることの中心はそこにはない。あなた方にはたくさんの恵みがある、と。つまり宝を天国に積む喜びに満たされる、というのです。泥棒が絶対に入れない神さまの家の中に、宝は積まれる。
 36節「あなた方の父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」
 愛は人間の内部にその根拠はないのです。そうではなくて私どもに宿ってくださる聖霊の力に動かされて初めて実践可能になるのです。日本人には、この「父の憐れみ」という言葉がわりあい素直に入り込むのではないでしょうか。慈母観音やマリア観音に親しんで来た背景があるので、「父の憐れみ」へすっと入り込めそうです。
 かつていつまでも大人になれない父を尊敬できなかった私は、私もまた父そっくりで、未だにおとなに成れない部分があるのを実感して時々苦笑していますが、こんな年齢になって父の憐れみだけは、しみじみ分かるようになってきました。父を失って初めては父の憐れみが見えてきたのは皮肉であります。が、分からせてくださったのは天の父です。キリスト者に成らせていただいた結果、ようやっと神の憐れみが分かるようになったのです。自分の命を与えて救ってくださった神の愛に助けられてこそ愛が可能なのです。
 話を戻します。尊敬している大江満雄ですが、自戒の三篇目の、

   混乱のとき 苦悩のとき
   天にいます父よと祈るな。

には、実は共鳴できません。なぜなら祈りは与えられるものだからです。祈りは自己主張であってはならない。まして、祈りは自己決断であってはならない。祈りは神さまへの訴えであると同時に、神さまが臨在してくださっているという感動だからです。
 報いを求めず、聖霊のお助けによって、さあ、ほんとうの愛の可能性を広げて、実践する生活に入りましょう。

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