いさめ始めた
マルコによる福音書 8章31〜38節
 我が家では、「朝日」新聞を取っていますが、二十代の終わりから三十代末まで、四国学院大学時代には、「毎日」新聞を取っていました。何故なら親しい友人が毎日の経済記者だったからです。その後論説委員となり、今はもうこの世にはおりません。「毎日」の特徴は印刷が濃くて活字が鮮明です。それと宗教欄がキリスト教についても少しは気を配っています。東京に移ってからは「朝日」に変えました。政治社会欄記事がおおむね私の考えに合うからです。この一週間の後半の14、15、16の記事もお盆休みの車の渋滞と高校野球のみではなく、戦争と平和、歴史認識の問題と真摯に取り組んでいて、目を開かせてくれる記事もありました。
 が、「朝日」にも欠点があります。宗教については明らかに無関心です。というより宗教とは何か、その働きと本質を現代という文脈の中で捕らえようとする知的意欲がほとんど感じられません。おおかた日本では、大学卒であっても、宗教についての一般的基礎知識も意欲も関心もない。神社では原則的に葬式をしない、なぜなら死は不浄であり忌むべきことだ、という認識を持っているということすら知らない。肉親の死に出っくわすまで自分の家がどの宗派のどの寺に属しているのかさえ知らない。宗派によって拠って立つ仏典が違うことすら知らない。キリスト教にいたってはプロテスタントとカトリックの違いはむろんのこと、オーソドックスという名前さえ分からない。今内戦中のイラクのキリスト教、あるいはシリアのキリスト教については全く知らない。北朝鮮のキリスト教、中国の地下キリスト教についても分からない。こんな無知な状態で世界が分かると思っているのはなぜなのか考えたことがない。
 考えられる答えの一つ。六九年前までの国家神道にこりごりしているからであり、1980年代から90年代中期にかけて事件を引き起こしたオーム真理教事件の経験で、「宗教は、やばい」という感覚だけが刷り込まれてしまった。  
 宗教とは何かと問う手掛かりが、義務教育はおろか大学教育にもないという世界的例外国家に属しているのが日本なのです。
 関西に来て、「朝日」が東京版と比べて、宗教をよく取り上げているのが興味深かかったのですが、おおよそは観光案内並みの記事ばかり。四月の下旬に「同志社大学神学部」がカラー写真付きで大きく取り上げられていましたが、あたかも観光案内のような、神さまごっこ遊びがしたいなら、入学して見たらいかが、と言わんばかりの軽い、浅薄な記事に気絶しそうになりました。これは日本の知識人が先進国の中で、無神論者、あるいはダーウィニズムの進化論支持が一番多いという報告と結びつくのです。一方では、伝統的宗教である神道と仏教が今なお習合していて、意識的、自覚的な信仰が確立していない曖昧な日本的意識が定着してしまっているのです。
 「朝日」には、いわば優等生的正義観があるけれども、もう一歩日本の現実の内側を正確に受け止めて、粘り強く社会を変革していく構想力が不足している。その原因は、絶えず神と人間の関係を見つめる視点の欠落にあると言ったら、キリスト教徒の勝手な思い込みだと拒絶されるでしょうか。
 今日のテキストは、マルコによる福音書8章31〜38節。ガリラヤ伝道が頂点に達して、イエスさまがいよいよエルサレムへと上っていく前に、ご自分の死と復活を予告する場面です。31節、「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」 32節、「すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。」
 人々の前で話されたのではない。苦労を共にしてきた弟子たちにだけ、これから起こる出来事を教えられたのです。弟子たちは日頃イエスさまを尊敬し心服して耳を傾けていましたが、ご承知のようにしばしばイエスさまの言葉の意味が分からず脱線して解釈したり、とんちんかんな行動に出ようとしたりしてきました。今回はイエスさまの顔表情から特に緊張感を覚えて真剣に耳を傾けて聞いてきいていたのです。主と共に誇りを抱いてユダヤ民族のためイスラエルのために行動してきたのであり、いよいよもっと熱情的な大胆な行動に出ると予期していたのです。が、あまりにも思いがけない言葉にびっくりしました。なんと「排斥されて殺される」と言うではありませんか。みなお互いの顔をくっつけるように見合わせて、聞き違いではないか、何かの間違いではないか。主イエスさまはまさか気が狂ったのではないか、とさえ思ったのです。しかし、坦々と真剣な面差しで語ったイエスさまを見ていて、腰が抜けてしまいそうになった。こんはずではなかった。これからだというのに、死ぬ、殺されるだなんて、ああ、なんていうこったと思ったとき、いきなりペテロ兄貴が立ち上がってイエスさまの腕を掴んで真っ赤な顔をしてみんなから少し離れた場所まで、強引にお連れして、本気で怒りながらイエスさまを叱ったのだ。「なんていうばかげたことを言うのです。あなたは俺たちの、人々の、イスラエルの救世主ではありませんか。だから俺は本気で信仰告白をしたんだ。俺たちの期待を裏切るおつもりですか。死ぬ、殺される? ばかげたことをおっしゃらないでください。あなたは救世主ではないのですか」と大声で泣き叫ばんばかりになった。そうだ、そうだ、とうなずく他の弟子たちに対して、33節、イエスさまは、「振り返って、弟子たちを見ながらペテロを叱って言われた。
『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。』 
 弟子たちの代表を自認しているペテロに向かって「サタン」と断言されたイエスさまがここにいます。この激しい叱咤の意味は何でしょうか。愛するペテロの精一杯の抗議は十分分かっていらしたのです。その全力集中の本気な怒りこそ全くの的外れだとイエスさまはお怒りになったのです。すべてのことに本気でまっすぐに反応するペテロは愛すべき好人物ですが、そこが決定的な間違いのもとでもあるのです。
「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」、 このイエスさまの台詞は、ぐさりと私どもの心に突き刺さってきます。私どもはいつもいつもいざとなると自分のことでいっぱいになってしまうのです。自分の立場、沽券、利益、そしてヒューマニズムの価値観にしがみついてしまいます。ほんとうに大切ななことは自分の利益や名誉や権威ではない。神さまのみ心がどこにあるのか。神さまの言葉を受け入れるしなやかな柔らかい心に浸み込んで来る言葉に従順であることなのです。
 それからイエスさまは、死と復活の意味について噛み砕くように語り、あらためて弟子たちに教えられたのです。三四節以下をご覧ください。「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」 
 ここまでイエスさまの言葉がしみじみと聞いている人々の心に浸み込んで来たことでしょう。死んで甦るとはこういうことなんだと初めて分かった気がしたことでしょう。言葉が心に浸み込むとは、こういうことなんだ、と実感したに違いありません。が、ほんとうに分かったのは、実ははイエスさまの十字架刑が終わって実際に復活された主に出会うまでは確信に至らなかったのです。
 そして最終のイエスさまの言葉、「神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる」と言って教えを閉じたのです。
 これはどういうことでしょうか。「神に背いたこの罪深い時代」とは、実はいつの時代もそうなのです。人間はいつの時代でもに神から顔を背けて生きている。神さまと真面に顔を見合わせて毎日生きていたら、辛くてしんどくて逃げ出したくなるでしょう。なぜなら人間として果たすべき責任がのしかかるから逃げたくなるのです。「朝日」新聞も、絶えず神と人間の関係を見つめる視点を持ったら、思考方法も少し異なって行くのではないでしょうか。
 主は断言される。「この罪深い時代」と。
 私どもは、心の奥底では願っているのです。ほんとうは、神さまとの対話を通して生き生きと生きたい、と。
 その時、「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」という言葉がまたしても聞こえてくるのです。
 が、今回はその言葉が大きく深い慰めの言葉でもあることに気がつくのです。
 「朝日」新聞に欠けているものもこれと同じです。神さまとの対話を通して世界をもう一度理解し直すこと、とりわけ日本に欠けているものを見抜く力もここから与えれるのではないでしょうか。
 私どもキリスト者は、じつは凄い力を与えれているのです。この凄い力を十分に発揮して、この「罪深い時代」を神さまと対話する世界へと変革していくべきなのです。教会がこの地上で何をもって貢献すべきなのかははっきりしています。
 証しの共同体として前進して行きましょう。

説教一覧へ