背きに対しては
詩編89章20〜38節
 昨日の台風のさ中、蝉の鳴き声を聞かなかった。そういえばポーランドでの一週間蝉の声はなかったように思う。欧米にも蝉はいるが、声は小さいようです。
 さて、以下の人物たちの共通点は何でしょうか。共産主義理論を築いたカール・マルクス、小説家カフカ、心理学者フロイド、日記を残したアンネ・フランク、映画「未知との遭遇」の監督、スピルバーグ。映画「戦場のピアニスト」の監督、ポランスキー。そうです、みなさんユダヤ人です。もう一人、忘れてならないのがアインシュタインです。私にはちんぷんかんぷんの相対性理論、そして彼は原爆開発のサインをし、協力しましたが、実際に、広島、長崎に原爆が落とされたことを知って深く後悔したのです。
 多くのユダヤ人が第二次大戦前後までにアメリカに亡命した結果、ハーバード大学をはじめ米国の大学の実力が世界の一、二位にまで高まったことは事実であり、アメリカの政治、経済、軍事力、文化などを背後から動かしている一大勢力であることもご承知の通りです。イスラエルの背後にはアメリカ在住のユダヤ人の勢力があるのです。
 妻と私は、教会からお休みを頂いたおかげで、ポーランド共和国を訪れることができました。ドイツとウクライナに挟まれた平原の国、ユダヤ人に対する差別が少ない国です。西洋でもっともユダヤ人が多かった事実が、アウシュビッツの悲劇を招いたのであります。首都はワルシャワ、面積は日本の約五分の四、人口約3811万人です。日本の平安時代にポーランド公国は生まれましたが、その後モンゴール人の襲来があり、ロシア帝国、ドイツなどに支配されて、ついに独立しましたが、一九四五年ようやっとナチから解放されると同時にソビエトに侵略されたのです。ポーランドの誇る作曲家ショパンは1810から49年までですが、ポーランドを熱烈に愛したピアニストであり、敬虔なカトリックですが、パリ在住時代にワルシャワ蜂起があり、ロシアの支配を許した神に対して怒り、「神よ、あなたはロシア人ですか」と書いています。
 さて8月3日午後、わたしはアウシュビッツ ビルケナウ駅の線路の上に腰を下していました。この線路の上を不安と疑惑と絶望に襲われた囚人たちを詰め込んだ貨物列車が1939年以降入って来たのです。この人生の最終駅まで送られてきたアンネ・フランクの悲劇にほんのわずかでも迫らせてくださいと私は、祈っていました。収容所の中の一棟にはコンクリート製の巨大な糞尿の壺がずっと奥まで連なっています。一日二回だけのその短い時間、囚人の屈辱はいかばかりであったことでしょう。それもいつしか慣れなければ生きぬくことが困難になる。囚人自身がガス室へと、新しい囚人にシャワーだと偽って送り込み、その死体の処理までしたのです。ドイツ兵将校はその現場にはいなかった。死への入り口のボタンを押しただけです。まして一般ドイツ人は現場を知らない。六百万のユダヤ人の内三百万人が殺されたのです。非ユダヤ人を含むと四百万人とも報告されています。ここにポーランド人やその他の外国人も送り込まれた。
 私どもは、異常な蒸し暑さの中で殺害を想像する苦しみはいつ終わるのか分かりませんでしたが、まさにその通りの虐殺が70年後の今日も現に繰り返されているのです。
 さて、今日取り上げた旧約の詩編150編は、人間のあらゆる喜怒哀楽を書き尽くしています。そこで強調されているのは神の正義と救いであります。
 今日は、89編の20から38節です。神によって祝福されたイスラエルではありますが、もう数えきれないぐらい神からの信頼に背いてきました。ありとあらゆる悪を積み重ねてきたのです。旧約聖書を読んでいると、おおよそ人間が考える悪のすべてが登場してきます。殺人、自殺、強盗、戦争、略奪、偶像礼拝など、これでもかこれでもかと言わんばかりの歴史の展開にぞっとしますが、それでも神は人間と交わした約束、ダビデの子を祝福するというのです。なぜでしょうか。人間に与えられた主体性はまったき自由だったのです。その自由は、神との交わりの中で生かされるものでありますが、ここで人間は間違った。与えられた知性と判断力を誤用した。というよりは悪用した。すなわち神さまに背くことによって与えられた知性を自分たちの欲望を満たす道具として利用して、背伸びし、傲慢になった。その度に神は人間をお裁きになったのですが、それは人間の滅亡ではなく、立ち直るために赦すという慈しみによって守られてきたのです。この事実が分からない。人間はどこまでも人間の力を誇りたい、だらしない存在なのです。政治家も芸術家も経済人も宗教家さえも。自分を誇る病気から逃れられない。このことは私どものほんの一瞬の人生の中でもしばしば目にしてきました、と同時に自分の内部にも芽を出している悪に気が付いている。
 しかし神はそんな人間たちに、つまり、20節、「あなたの慈しみに生きる人々に/かつて、あなたは幻によってお告げになりました。」 20節以下は、新しいダビデの誕生であります。26節、「私は彼の手を海にまで届かせ/彼の右の手を大河にまで届かせる」、 ここのあたりは、イスラエル王国、ユダ王国をイメージしてよいでしょう。遥かなユーテラスまでひろがる王国の実現の預言なのです。
 続く27節は、明らかにイエス・キリストの到来を語っているのです。「彼はわたしに呼びかけるであろう/あなたはわたしの父/わたしの神、救いの岩、と。」 すでに父なる神と子なる神の神学は明白に打ちだされていたのです。
 28節、神はまっすぐに息子なる神という定義まで用意していたのです。「私は彼を長子とし/地の諸王の中で最も高い位に就ける」と。29節、「とこしえの慈しみを彼に約束し/わたしの契約を彼に対して確かに守る。」と。
 ここまで言われなくても私どもは市民として法律に逆らうことは一度もしたことはないという答えを用意している人もあるでしょう。が、待ってください。私どもは、知ろうという努力を怠ってはいませんか。そんな面倒臭ことは知る必要がないと自分を庇おうとしていませんか。あえて知ったとしてもどうなるものでもないと言って。どうもならないと分かっても知ることは嬉しいこと、楽しいこと、感動的なことだとは思いませんか。例えば、東日本大震災に遭遇した人々に代わってある新聞記者が発言しています。「こんな無辜の民がこんなひどい目にあうなんて信じられない」という言葉をそのまま受け入れられますか。無辜の民(何も悪いことをしていない民)は、平穏無事で暮らせるはずだという発想は甘い。悪いことをしていようと良いことをしていようと関係なく、地震は来るときには来るのです。「正直者が損をする」という言葉もおかしい。正直者は正直者という価値を生きている、それだけでいい。
 それよりも、法律にひっかからなければ無罪なのでしょうか。世間の目に入らなければ無罪なのでしょうか。私どもがもっとも恐れなければならないことは、朝起きてからベッドで眠るまで、一度も神さまに祈らない、感謝しない一日を過ごしてしまったあの日この日ではないでしょうか。そういう好い加減さと鈍感、無関心が積もっていったらどうなるのでしょうか。
 そういうときこそ31節が響いてくるのです。「しかし、彼の子らがわたしの教えを捨て/わたしの裁きによって歩まず/32節、「わたしの掟を破り/わたしの戒めを守らないならば/33節、「彼らの背きに対しては杖を/悪に対しては疫病を罰として下す」と。これは神さまの容赦ない審判なのです。私どもはあまりにも生きることに無感動、鈍感になっていませんか。朝目覚めたとき、「今日も健康と安全をお願いします」と素直に祈れることはすがすがしい喜びです。神さまとの対話から始まる一日が展開する道をもう一度恢復しようではありませんか。
 そういう時、神さまの方がいつも先回りしていることに気が付くのです。34節をごらんください。「それでもなお、わたしは慈しみを彼から取り去らず/わたしの真実をむなしくすることはない」
 今日読んだあたりは、神の真実と慈しみが主題低音として一貫されています。
 私どものツアーは、19名しか集まりませんでした。飛行機を乗り継いで一二時間余りかけて、負の世界遺産まで足を運ぶ人はこれしかいなかった、と言うべきなのでしょうか。重く苦しく滅入ってしまうことは全く虚しいことなのでしょうか。
 私はそうは思いません。たくさんの国を今まで訪れました。が、今回ほど疲れたことは初めてです。
 けれども、もしアウシュビッツを見なかったら、人間の未来に漠然とした期待しか持てなかったことでしょう。今回の負の世界遺産に触れる旅を通して、安易な期待を持ってはならない、という特別警報を確かに受信したのです。
 極めて難しいことであるけれども、この負の遺産と向き合い三百万人が殺された現場に立った時に、人間の極まりのない罪の恐ろしさを実感して動けなくなってしまったのです。この一週間近くの間、ずっと考え込んでいました。今の正直な気持ちは、今まで以上に自分のなすべきことをはっきりさせて、一歩一歩歩いて行こう、できれば回りの人たちと一緒に、という希望が生まれてきたのです。
 それは、何故かと言いますと、第一に、あの収容所の高圧線の下に穴を掘って逃がしてくれた父を振り向くこともできずに逃げた七歳のポランスキーが後に世界的な映画監督になり、「戦場のピアニスト」を創ったという軌跡の人生から学ぶものがたくさんあります。ここには神の導きがあります。
 第二に、人生の負債は誰もが背負っています。ドイツ人もロシア人も日本人もユダヤ人もアメリカ人も中国人も。負債は返せるものと返せないものがあります。
 が、神の声が聞こえます。35節、「契約を破ることをせず/わたしの唇から出た言葉を変えることはない」。 この力強い励ましに支えられて、前進しましょう。
 祈ります。

説教一覧へ