好意と一致
ゼカリア書11章1〜10節
 一昨日も猛暑、30何度という茹だるような暑さでした。が、私は浮き浮きわくわくして日本橋の文楽劇場を目指しました。じつは生まれて初めて見た人形浄瑠璃・文楽の舞台はこの大阪だったのです。同志社の学生であった五十余年前のことです。それ以来しかも「女殺油地獄」という傑作の観劇というので心逸っていました。妻は初めてです。妻が育った京都には文楽劇場はなかったのです。東西東西という呼び掛けと拍子木の甲高い音から始まりました。これは1721年、江戸時代享保六年、大阪に起こった衝撃的な殺人事件を日本のシエクスクスピア・近松門左衛門が脚本を書いた人形劇ですが、初演は不評で、その後だんだん忘れられて行ったのです。本格的な復活はなんと1952年(昭和27)で、朝鮮戦争がようやっと終わって、安保闘争、ベトナム戦争へと続く騒然たるたる時代の嵐の中、浄瑠璃と関西歌舞伎の衰退危機の時代だったのです。私の少年時代、青年時代のすべての背景であります。
 ところが、この人形劇の背景の殺人事件は、じつはなかったらしい、のであります。とは言え、この劇は、東アジア日本国の放蕩息子の物語なのです。
 今日は、浄瑠璃の勉強会ではありませんので、筋書は簡単にします。大阪天満の油屋河内屋の次男与兵衛は、亡くなった先代の次男であり、名うての遊び人、プレイボーイで河内屋の身上を食いつぶす悪(わる)の代表なのですが、与兵衛を心から心配して気遣ってくれる義父や実母や妹の愛情が逆に重荷になって、いっそう自堕落な反社会的な行動に出るのでした。与兵衛をやさしく労わってかばってくれる向かいの同じ油業の豊島屋の内儀のお吉を逆恨みして殺してしまうのです。与兵衛が犯人である証拠は、ネズミが血染めの借用証書の一文を天井から落としたことから分かってしまい、逮捕されるのです。
 これだけを聞いたらありふれた犯罪劇だねでチョンチョンと手打ちされてしまいそうです。が、この劇の魅力は、荒筋の方にではなく、油壷が倒れて、油塗(まみ)れになった二人(与兵衛とお吉)の転び塗れつの逃げ惑い追い詰めて展開される凄惨な殺しの果てしないまでの殺人劇の処理の仕方にあるのです。  
 舞台の一番前のフロントラインをものすごいスピードで仰向けに倒れた与兵衛が股開きのまま滑っていく場面など、固唾を呑んでしまいました。
 えっ、殺しという反社会的犯罪の場面が素晴らしいだって、なんという非常識なことを言う牧師だと怒られそうです。が、ほんとうなのです。そこが見どころなのです。というのは、人形だから安心して見ていられる。そのうちにあまりにも迫力があり、スリリングなので心奪われ、観客が虜になってしまうのです。芸術的美学的であることによって、このようにしか生きられなかった日本の悪、放蕩息子の悲しみがどっと押し寄せてくるのです。
 お芝居の魅力はどこまでもエンタメ、面白くて娯楽性豊かであること、そして美しくて楽しいことでなくてはなりません。歌舞伎も映画もダンスも同じです。
 では、今日のテキストに入りましょう。
 ゼカリア書11章1〜10節です。なんだかよく分からななあ、という人もいるでしょう。ご安心ください。紀元前の人なら分かったかも知れません。現在の私どもにはなかなか分からないのです。というのは新約の福音書や書簡ならおおよその意味はつかめるのですが、今日のテキストはかなり黙示的文章であり、この時代の黙示文学に近いので、すっと入っては来ないのです。
 しかもゼカリア書の八章までなら預言者のゼカリアと事件の年代まで記されていたのに、今日の辺り以降は、ゼカリアの名前も年代も消えてしまっているのです。これは明らかに第二ゼカリアと言ってもよい部分であり、背景の時代や筆者の特定がほとんど不可能な部分なのです。ユダヤ民族が苦悩の中に置き去りにされていることだけははっきり分かるのです。敗戦以降の五〇年余りのあまりの、アメリカ帝国の半分植民地の日本の歴史を思い起こせば少し分かるのではないでしょうか。
 すなわち、1945年の敗戦、連合軍という名による、事実上アメリカによる占領。そして朝鮮戦争、ベトナム戦争、安保闘争。新憲法ができていたとはいえ、日本中が嵐に巻き込まれて右往左往してあがいてきました。今新たに、世界は米ソ対立、竹のカーテンの中国の台頭という危ない様相を帯びてきています。
 最近の世界情勢の動きに無関心ではいられません。歴史は繰り返すのでしょうか。
 テキストの時代背景を簡単におさらいして見ましょう。
 紀元前587年、忘れもしない、バビロニア帝国のネブカドネツアルの軍事力によってエルサレムは滅ぼされて、ユダ王国の旧支配者は強制連行されて捕囚の民にされました。そして六八年という時間が積み重ねられて、旧ユダ王国への悲嘆も未練も郷愁も消え去りつつあったのです。そして、肝心のバビロニア帝国自身もペルシアのクロス王によって滅亡させられてしまった。その結果、アーリア民族が支配する世界へと塗り替えられて行ったのです。軍事力、力づく中心の奴隷化による帝国ではなく、多民族多文化の共存による新しい帝国へと転換されていくのです。こうしてユダヤ民族のイスラエルへの帰還が可能になった。帰還後、祖国エルサレムの神殿の回復という形での王国再建の幻の実現化を志していくのです。が、ことは言うほどたやすくはなかった。ユダヤ民族の政治と経済文化の復興の厳しい道程を通して、この時初めてユダヤ教の教理体系も整えられて行ったのであります。その苦闘の最終段階に現れたのが預言者のハガイとゼカリアです。
 今日学んでいるゼカリア書は、この時期に残された文書を編集したものであり、黙示的幻を含んでいるのです。故に、すっと分かるのはむずかしい。
 たとえば11章の1節、「レバノンよ、お前の門を開け。/火にお前の杉を焼き尽くさせよう。」 は、ペルシア帝国の軍事力の象徴でありましょう。あるいは3節、「若い獅子の吠える声」とは、ペルシアの帝王の象徴でありましょう。
 そして4節以下、「悪い羊飼い」は、政治的王を指していますが、みな自分の利得でしか動いていない。六節の「主」をどう捉えるか解釈は様々ありますが、私どもは素直に父なる神と捉えていいでしょう。が、主はついに怒りを止めることなく露わにします。六節「わたしはこの地の住民を再び憐れみはしない、と主は言われる。見よ、わたしはどの人もその隣人の手とその王の手に任せる。彼らがこの地を打とうとしても、わたしは彼らの手から救いはしない。」 と断言します。内部分裂と抗争を繰り返すユダヤの民を見離すのだ、と言うのです。七節に出てくる「二本の杖」は当時よくあったようです。ただし、ここでは名前が付いている。「好意」と「一致」という杖の名前。ユダヤの再興を願って付けられた名前です。ところが二本とも折ってしまうのです。
 「主よ、ここまでなさるのですか」と私は抗議したい。が、ゼカリア書をさらにていねいに読んで行けば、主の好意は、十分に配慮されていて、「一致」を目指す最後の切り札としての救世主(キリスト)の幻が見えてくるのです。これが黙示文学の特質なのです。なぜなら。主が人間をほんとうに切り捨ててしまったら私どもの希望は断たれてしまう。私どもがほんとうに自分らの無力を認めて懺悔する時、主は眼前にお立ちになってくださるのです。ゼカリアは主のそういう奥深い救いを語ってくれているのです。
 では、ここでもういちど人形浄瑠璃に戻ります。今年の11月29日(土)、 じつは大阪クリスチャンセンター(OCC)に於いて、大阪教区主催の、なんと、「ゴスペル・イン・文楽」(文楽に宿った福音)が企画されました。これは、去年の12月23日に日本聖公会の川口教会で公開された「イエス・キリストの生涯」の凱旋公演なのです。あの時私も申し込んだのですが、すでに遅し、でした。東京からも観客がたくさん押し寄せてとても好評でした。キリスト新聞の記事を読みましたが、突っ込んだ批評ではありませんでした。今年は、もっと本格的な批評(宗教文化論あるいは伝道論あるいは芸術論)を期待したいです。
 話は少し戻りますが、今年の晩春に第一回ゴスペル落語会(OCC)を鑑賞しました。凄く感動しました。あの時以来、関西での伝統芸能を通しての伝道の可能性を確信しました。世界が誇る伝統文化である文楽を通して、福音が楽しく美しく人々の魂に浸み込んで行ったら、日本文化の中に福音は着実に根を下せることでしょう。私も具体的に協力できる方法を今考えているところです。
 ちなみに韓国では、クリスマス礼拝には男女共に民族衣装で正装して出席します。延世大学のチャペルの壁画は、イエスさまの生涯が韓国風俗で描かれています。日本も思い切った土着化を試みる時が満ちているのではないでしょうか。
 今日は、ゼカリア書を通して、キリストを証ししていくことの重要さを共に学べたことを喜びましょう。これは好意と一致という二本の杖を両手でしっかり持つことから始まるでしょう。
 祈ります。

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