見捨てられて
マタイによる福音書 23章37〜24章2節
 1945年(昭和20)8月15日、晴天。69年前の真夏です。あの日の天皇陛下の玉音放送を当時四歳の私は祖母の膝の上で聞いたそうですがまったく覚えていません。
 しかし、三月十日に始まったB29の空襲は鮮明に覚えています。銀色のジェラルミンの異様に美しい悪魔の翼、大編隊が西の富士山の方から東京に襲来したのです。その帰路、九十九里浜(現在の成田国際空港)の方角へ切り替えるとき、私ども家族がいる埼玉県浦和市の上空に置き土産として無数の焼夷爆弾を落として行ったのです。私の三つ上の兄はあまりにもカッコいい巨大飛行機の群れに興奮して手を振って歓迎したのです。激怒した父が兄を縛って二階から吊るしてしまった。B29が飛んでいる現場でのことです。父と子のそれぞれの激しい怒りを見つめていた弟の私は、がたがた震えていました。あれは東京大空襲何万人もの犠牲者を出した恐ろしく美しい悪魔の銀色の翼だったのです。あの恐怖が、今イスラエルのガザで繰り返されています。空襲です。ついに地上戦に切り替わりました。犠牲者は一般市民が確実に増えています。
 あるいはウクライナの東部でのマレーシア航空機の墜落も四日前に起こりました。親ロシア武装派による撃墜らしいのです。
 人類はどうしてこんなに愚かな生きものなのでしょうか。地球上の生物で一番残虐なのが、戦争という殺し合いを止められないホモ・サピエンス人間なのです。さらに人間以外の生物をも巻き込み、環境破壊もすさまじいものがあります。そして一番悲惨な自殺、自殺を止められないのも人間なのです。
 つまり神さまから与えられた知性と判断力と良心という賜物を、人間は今なお使いこなせない。
 しかし絶望的ではない。賜物をもっとも生かしているのが国境なき医師団と社会福祉と芸術活動であります。ここにはかすかな希望が見えています。
 こんな人間を創ってしまったことを神さまは深く後悔なさった。ノアの洪水もバベルの塔の破壊も神さまは断腸の思いで踏み切ったのであります。が、それでも人間は何度も背いたのです。
 とうとう神さまは最終手段に出た。
 なんと、自分が愛する一人っ子イエスさまを人間の歴史の現場に送り込んでくださった。これが新約の時代の始まりなのです。つまりイエスさまがいらっしゃったのは、神さまと人間とのほんとうの最終的な、関係の回復を図るためであった。このドラマは、イエスさまが人間の罪を購うために犠牲になるという悲劇だった、のです。
 すなわち、神の民として選ばれたユダヤ民族が神さまの御顔を仰ぎながら生きるという信仰者の道から何度も背いている状況の中でイエスさまは生まれて、人間として成長し、愛し、苦悩するのです。が、イエスさまの語り掛けに依然として立ち止まらない、立ち返らない。背を向けたまま、悪の道へとのめりこんでいく。そんなユダヤ民族の本拠地、エルサレムへとイエスさまは乗り込んで行った。ただしロバの背中に乗って。この場面は、ユーモアいっぱいのエルサレム入城であります。ここは、「エルサレムに迎えられる」場面であり、群衆は、自分の服を道に敷き、「ダビデの子にホサナ」と叫んだとあります。
 さて、ユダヤ民族の本拠地と言えば、言うまでもなくエルサレムの神殿であります。ところが新約40頁の下段、小見出しは、「神殿から商人を追い出す」とあるように、たいへんなことが起こった。12節、「そこで売り買いをしていた人々を追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛を倒された」のです。罪の許し、あるいは清め、犠牲を手に入れるための売買で賑わっていた境内は大騒ぎになった。13節、イエスさまはこう言われた。
「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』 ところが、あなたたちは それを強盗の巣にしている。」 と。共観福音書はみなこの場面に力を入れています。とくにヨハネ福音書は、冒頭の2章15節で、「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し」と報じています。イエスさまの怒髪天を衝く怒りは爆発したのです。罪や清めの儀式を行うためにやってきた人々を含めてそれを商売にしている宗教者たち全体への真っ向からの挑戦、否定であったのです。この場面は現代の日本の寺や神社の参詣客や観光客相手の商売に成り下がった現状でもあります。この強盗の巣の場面を読む度に私は熱い共感を覚えるのです。
 その後の幾つもの激論、権威についての問答や皇帝への税金のついて、復活について、最も重要な掟「愛」についてなど次々に論争して圧倒しましたが、23章に入ると、律法学者とファリサイ派の人々とまたしても真っ向から論争して論破します。
かれらの口先だけの説教や偽善を激しく非難したあと。今日のテキスト、37節以下の嘆きが記されているのです。
 37節、「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で撃ち殺す者よ」。 このイエスさまの嘆きは激しい怒りの叫び声なのです。神の民ユダヤ民族に対する詰問です。長い長い旧約時代に於ける神から遣わされてきた預言者たちに聴き従わず、耳を傾けず、それどころかもっとも酷い極刑である石で撃ち殺してきたその裏切りの歴史を詰問されている。もしも次々に遣わされた預言者に聴き従っていたら、イエスさまこそ最大の預言者であることを知ることになっていたはずなのです。しかもイエスさまこそ彼らが待ち望んできた救世主・キリストであったことを知ったはずなのです。この決定的な失策、鈍感、思い上がりを断罪するかのようにイエスさまは切り込んだのですが、どこまでも彼らへの憐れみを捨てていません。37節後半をご覧ください。「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。」 旧約の預言者の言葉を学んできたみなさんは、ああ、誰かの台詞の一部分だと気が付いたことでしょう。その預言者の言葉がそのままイエスさまの本心なのです。しかも神の子の本心なのです。これは父なる神の本心でもあるのです。
 ここでイエスさまは言葉の手綱さばきをゆるめません。続いて「だが、お前たちは応じようとしなかった。」 聖書をよく読んでいる人ならイエスさまが人々に向かって「お前たち」とは普段言わないことを知っています。上からの目線で「お前たち」とここで言ったのです。イエスさまの嘆きは完全な激しい怒りに変わっています。38節、「見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。」 39節、「言っておくが、お前たちは『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決して私を見るときがない。」 と呪うような謎々を降り掛けたのです。お前たちの家とは、言うまでもなくユダヤ民族の根拠地であるエルサレムの神殿のことです。神の住み給う神殿が荒れ果てるというイエスさまの言葉に弟子たちは、どよめいた。何だって、イエスさまは何をおっしゃっているのだろう、と。
 47頁、24章小見出し「神殿の崩壊を予告する」をご覧ください。2節、「はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」。 驚かずにはいられない。エルサレムが、神殿が崩れ落ちるなんてありえない。イエスさまは、はっきりと「わたしの家」とおっしゃった。その神殿が崩れ去るというのです。弟子たちがどんなに恐怖に襲われたことか、想像に難くありません。しかし、聖書はそれ以上何も語らない。語らなくても読者は、私どもは知っているのです。紀元70年、ユダヤ人根拠地エルサレムも神殿もローマ軍によってことごとく破壊され尽くした歴史的事実を。そして二千年後の第二次大戦後まで、彼らは国家を持てなかった事実も知っているのです。その苦悩を経てきたユダヤ民族がイスラエルを恢復した現在、パレスチナ人を徹底的に憎悪して叩き潰そうとしているこの地獄図をイエスさまがお赦しになるはずがない。ユダヤ教という一神教による政教一致を固守しているイスラエルの持つ恐るべき欠陥がここにあります。
 私どもが信じるキリスト教は、今日、世界最大の信徒数を誇る大宗教なのです。
 イエスさまが預言されたことの真意は、神の国は、ひとりひとりの心の中に宿るのであって、私ども自身が神の体なのだという意味なのです。俗的世界の権威や武力や富などに迷わされてはならない。それらは必ず、見捨てられて荒れ果てる、のです。
 私どもが行く道は、神と人間のほんとうの関係に立つ緑と水のほとりの道です。
 与えられた賜物を十分に生かす生き方を今からやりなおして、子供や孫たちに引き渡せる世界を恢復すべく立ち上がりましょう。

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