足に香油を塗って
ルカによる福音書7章36〜50節
 今年の春、伊勢神宮を訪れた時の感想は説教で少し述べました。祭神アマテラスオオミカミを頂点として皇室神道と結びつけた国家神道体系の舞台を見たかった。日本人の多くが神社とお寺、つまり神道と仏教の区別ができず、鳥居を潜るだけで敬礼するこの習慣に疑問も抱かず暮らしている。初めて仏像に接して、「異国の神、きらきらし」と驚き讃嘆した古代日本人の仏教体験を完全に忘れてしまっている。仏像は異国の神だったのです。
 そして、二十一世紀の今なおキリスト教教会を敷居が高いと違和感を抱いています。二年前の十二月、電話がかかって、「クリスマスには七面鳥の蒸し焼きをご馳走してくれますか。」 と聞かれました。子供をミッションスクールに入れるのを好む父母は多いのですが、洗礼を受けたいと子供が表明すると、「そんなことをしてもらうために学校に入れた覚えはない」と血相を変えて抗議してくる親も多い。日本社会にとってキリスト教は、あいかわらず、ていのいいお客さんに過ぎない。どうしてそうなったのか。切支丹天草四郎の反乱以来、国家を脅かすやっかいもの、危険物として弾圧して破壊した後、徹底的に証拠隠滅してきた歴史体験の後遺症なのです。当たらず障らず、貰えるものは貰って後は知ーらない、です。
 じつは先々週、少し台風の気配がする紀伊半島を南下するバスツアーの一拍二日の旅をしました。熊野巡礼参道ユネスコ遺産決定十週年記念企画でした。難波、大淀、吉野、十津川、熊野、新宮という道程。入り組んだ狭い道路、街道なのでミニバス二台、運転士二名は女性でした。十津川村の行き止まりの天川村の天川神社から始まりました。行く所のほとんどすべての神社の帳が祝ユネスコ遺産指定という文字ではなく、なんと菊の御紋です。皇室以外の菊の御紋使用を禁止したのが明治二年です。その一年前すなわち明治元年、明治政府は、国民統合を目指して神祇官を復活、祭政一致の実現に乗り出し、神仏分離政策を打ち出しましたが、その結果はみなさんご存知の通りです。そこでさらに神道体系を一本化してその頂点に天皇をいただき神道と結合させたのが国家神道であり、一九四五年まで日本国民を戦争に駆り立て猛威を奮ったあのシステムです。その最大の目標がキリスト教の流入の禁止と長崎浦上弾圧事件であり、戦時中の皇居遥拝と迫害であったこともよくご存知の通りです。日本人のキリスト教に対する愛憎交々、そして曖昧な態度は、その根底に宗教に対する基本的な、明確な教養や知識の欠如、不足が横たわっている。
 「私は無宗教です。無神論です」という挨拶とは裏腹に神社仏閣に行くとすぐに柏手を打ったり最敬礼をしたり、小銭を投げいれるのです。そんな光景を今回もたくさん見てきました。
 明治39年(1906)の「神社合祀令」(一村一社のみ、国家神道に合わない神社は廃止)という暴挙に立ち向かったのは、ご存知和歌山県生まれの世界的な学者、南方熊楠でした。杉の巨木に自分の体を縛り付けて村の素朴な信仰の象徴である神木を守り抜いたのです。教派神道である天理教、大本教などへの徹底的な弾圧も忘れられません。
 「強い日本を取り戻す」というあの掛け声の背景にあるものは靖国参拝とつながるナショナリズムの高揚なのです。
 私の拘りは、ほんものの信仰を持続することの大切さということです。ファッションやアクセサリーとしての信仰は要らない。信仰は生きる力であり、命なのです。
 復活信仰抜きに教会は成立しなかったという原始キリスト教発生の事実をよく考えてください。
 今日のテキストの並行記事は、他の福音書にもありますが、大きな違いは、ルカによる福音書だけが伝道の初期に置かれていることと、信仰の本質論を展開していることです。
 今日の小見出しは、「罪深い女を赦す」ですが、じつをいうと正確ではありません。この点に絞って一緒に考えてみましょう。
 ファリサイ派についてはいまさら説明することもないほどです。彼らはユダヤ教の知的エリートであると同時に政治的支配層にも属しています。シモンという名前ですが、とくに目新しい名前でもありません。が、この男はイエスさまに深い関心を抱いていた。だからイエスさまを招待したのでしょう。36節、「イエスはその家に入って食事の席に着かれた。」 現代の沖縄や韓国などもそうですが、結婚式などお祝ごとがあるときには通りかかった人は誰でも参加できたのです。このときは、イエスさまと共に当然弟子たちも招かれていたのです。当時のユダヤの食事の習慣では左のひじをついて支えにして横になり両足は後方に投げ出しています。37節、「この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、」 ここを読めばたまたまこの女がイエスさまを見かけたことが分かります。罪深い女ですから、招かれていたはずはありません。おそらく遊女でしょう。いつの時代にもこのようにしか生きていけない人がいるのです。性を商売道具にせざるを得ない人たちがいるのです。その女がどうしてもイエスさまに近づきたい、なんとしてもしたいことがあったのです。
 ですから、38節、「後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」とあります。初めは誰も気が付かなかったに違いない。召使いたちに紛れて近づいた。イエスさまは誰かが自分の足に触れている、涙がこぼれていると足で感じていらっしゃった。「後ろから」という書き出し、ここからの映画的なカメラアングルによる描写は独特で他の福音書とは異なっています。とくに「接吻して」という表現が凄い。いまの五〇代以下の方にはあまり実感的には迫らないでしょう。が、新約聖書の中では、この接吻が決定的な場面で重要な役割を演じているのです。これは強い反復される長い口づけのことで、儀礼やあいさつの接吻とは単語も違っているのです。裏切ったユダの接吻(マタイ、マルコ)、 そして放蕩息子の首を抱いてなされた父の接吻(ルカ)が忘れられません。日本人には普段見られない激しい愛情表現なのであります。
 この後40〜44節まで続く借金の帳消しの話は興味深い。「どちらが「その金貸しを愛するだろうか」という問いはシモンに向けてなされ、シモンの答えも正しいのですが、ほんとうはここに中心があるのではなく、二人共に帳消しにしていただいた事実、つまり借金の額の高低には関係なく、共に帳消しされたという方に重点があるのです。罪の量が問題ではない。罪そのものの帳消しなのです。ということは、神の側から一方的に赦される赦しは恵みそのものなのです。人間の側の努力によって赦しが手に入るのではない。罪と真向かって苦悩した経験がおありの方ならよく分かることです。自分の能力で処理できる罪なんて大した問題ではない。
 この女はそのことを体中で分かっていたのです。そこでイエスさまをいつ知り、どのように出会ったのかはは何も書かれていませんが、泣き続け、髪の毛でイエスさまの足を洗い、接吻する行為は、イエスさまへの感謝と信頼がみなぎっていて、そうしなければいられない女の全力投球の感動表現なのです。すなわちイエスさまによって赦されたという確信と信頼がすでにあって、ここに涙の洪水となってあふれているのです。
 46節以下、「あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油をぬってくれた。だから言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。」 と。この女が持って来た香油はどうやら高額な貴重なものではない。
ごく普通の化粧品だった。なぜなら香油の名前や説明はなされていない。額ではなく、女の行為そのものがイエスさまの心を動かしたのです。
 48節、「そして、イエスは女にあなたの罪は赦された」と言われた。この本当の意味は、すでに赦されているという過去完了形なのです。すでに赦されていて、今も赦されている。この女は、聖霊の助けによって、この事実を知っていたのです。だからこの場に来てその喜びを表現したのです。このイエスさまの台詞は、周囲の者を驚かせた。罪の指摘と裁きではなく、女を根底的に変革して、全き自由な女として社会的に復帰させたからである。49節、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた人々に初めは、ぼんやりとだがしだいにはっきりと見えてきたのです。この方こそキリストだ、と。その時イエスさまは宣言なさった。50節、「イエスは女に、『あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい』と言われた」。 まちがってはいけません。女は救われた喜びの表現として泣きながら足を洗い、拭ったのです。ファリサイ派のシモンが全然辿り着けなかった信仰の喜びを罪深い女が演じたのであり、今は、全き自由な人間として安心して社会の中へ出て行く出発のときなのです。
 今日の小見出し「罪深い女を赦す」という小見出しは、じつを言うと正確ではないと最初にお断りした理由を分かっていただけただろうと思います。私なら「安心して世の中へ」出て行きなさい」という小見出しにしたでしょう。
 一つ付け加えます。この救われた喜びの物語の最初から終わりまで、この女性は一言もしゃべっていません。聞こえてきたのは泣き声だけです。
 毎週の祝祷の中で、「平和のうちに出て行きなさい」と語り掛けてくださるキリストの愛を噛み締めたいものです。私どもも自分にできることを全力投球して、救われた喜びを表現し、証ししてゆく人生へと、さあ、出発しましょう。

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