光の方に
ヨハネによる福音書3章16〜21節
 三年前、土師に来てびっくりしたことが幾つもありました。堺が想像していたよりもずっと南国的であったこと。それ故、植物が亜熱帯的な系統のものが多い。フェニックス通り。千利休時代からあったのでは、と思いましたが、間違いでした。徹底的な空襲によって旧堺は焼き尽くされてしまった。敗戦後堺の奇跡的な復興を祈って、異名不死鳥を持つこの並木を植えたのが始まりだった。フェニックスとちんちん電車、いい感じです。
 ところで、土師町のメインストリートの魅力も、ありました。一軒しかないスーパー万代、春の終わりの黄昏、深井中央中学の川のあたりに出現する蝙蝠、薄暗くなった低い空を自在に走り回るかわいい奴、害虫退治に精を出してくれます。晩春忙しそうな燕。軒下の土の器の中には数羽の雛、親が餌を咥えて帰ってきたと直感するやいなや、一斉に顔の半分くらいある大きな口を開けて、まだ下手糞ですが、チュビ、チュビチュビ、チュル、リリリ、と叫び出す。親は、もっともっと上手です。チュビチュビチュビ、チュルリリリ、日本語に翻訳すると、「土食べて虫食べて口渋い渋い」です。外敵蛇から家族を守るためにあの丸い巣を作るのです。泥と枯草を自分の唾液で捏ねて作る。成長した燕のあの燕尾服で見せてくれる鮮やかな宙返り、モダンダンスの始まりです。あの燕尾服を着た燕は、体がしまっていて飛行にたけた流線形なのです。そういえば1960年代までは、特急燕号が東海道線を走っていた。恰好よかった。
 やがて秋になると、台湾やフィリピンやインドネシアまでノンストップで飛んで行く。途中船がないかぎり休むことができない。途中で群れから墜落するものがいても渡り鳥は一切振り返らない。悲しみ弔う余裕はない。目的地まで飛び続けることだけが生きる総てなのです。燕の家族愛は、子育てに全能力を注ぎ、渡りの準備をする。そこまでです。
 では、子どもの自立がずば抜けて遅い人間が、なぜこの地球で生き延びられたのでしょうか。考えて見る価値があります。と同時に、なぜ人間だけが互いに殺しあう生き物なのでしょうか。集団的自衛権などというとんでもないことまで決定する政府に黙ってはいられません。そして、人間だけがなぜ宗教を持っているのでしょうか。
 さて、今日の問いは、そのままニコデモの問いと重なるのです。
 今日のテキストは、じつは3章の1節から始まっています。先ほど読んでいただいた16節は、今日のお話のなかの山場です。
 そして、みなさんはこのお話全体を「イエスとニコデモ」としてよくご存知です。
 1節をご覧ください。「さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。厳格な律法主義の国会議員といえばエリート中のエリートです。この人はどうやらイエスさまに深い関心があるようです。しかし、社会的地位や立場があるので、イエスさまのところに素直に出かけて行くわけにはいかない。
 だから、2節、「ある夜」なのです。人目につかぬようにそっとこっそり「イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもはあなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。」 いかにも礼儀正しい人ですが、だからと言って何か特別な問題を抱えて相談に来たようには思えません。あえて夜になってからイエスさまのところに来たにしては、これでは拍子抜けです。
 その時、イエスさまはニコデモの面前で予期しない言葉を投げ込んだのです。三節、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ神の国を見ることはできない」と。ニコデモは面食らった。思いがけないばかりか、理解できない言葉を浴びせられて威厳を失いそうになった。これまで自分が整理できない言葉を浴びせられた言葉がなかった。エリートとしての自分の知性、教養、実力への過剰な自負が全面的に否定された屈辱。打ち砕かれ、うろたえている自分を見抜かれまいとして、自分でも情けない返事をしてしまった。
 4節、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
そして心の中でつぶやいた。「おれほどのエリートがなんという愚かしいことを言ってしまったのか。ううん、ううん。」と。
 ところが、イエスさまは、素知らぬ顔でさらに語気を強めて断言したのです。
 5節、「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」 
 ローマに支配されていた当時のユダヤにいて、政治的、物質的にしか神の国を考えられなかったニコデモは大きなショックを受けたのです。
 「新たに生まれなければ」と鮮明に語ったイエスさまの言葉には、たしかに権威がある。あれは、心を入れ替えるまで、反省と再生を図れと言っているのだろう。律法を守るためにこれほど努力してきたのに、決定的に救われなかったからこそひそかにイエスさまと親しく話がしたかったのです。
 決定的だったのは六節でした、「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」。 続いて7節、「『あなたがたは新たに生まれなければならない』とあなたに言ったことに驚いてはならない。」 ここで注意すべきはイエスさまが突然「あなたがた」と複数形を使ったことです。九節では、「私たち」と語ります。明らかにユダヤ教徒とキリスト教徒との対話へと視点が動いているのです。もう少し詳しく言えば、わたしイエス」と弟子たちが、「わたしたち」という一人称複数形なのです。
 八節に進みます。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くのかを知らない。霊から生まれた者も皆その通りである」。 聞いたことがありますか。ギリシア語では、風と霊は同じ単語で「プニューマ」と言います。神の霊は外側から訪れ、人間を包み、抱きしめ、祝福して、恵みを与えて去っていくのです。そいて人間は生まれかわる。人間の努力や修行で生まれ変われるわけはない。神の霊によって生まれ変わるのです。
 イエスの言葉を聞いたニコデモがそれでどうしたのか。テキストは何も語っていません。
イエスさまに反発したのか。同意したのか。自分自身に絶望してそこから去って行ったのか、何も分かりせん。
 聖書は、そこから十六節の山場へと上り詰めるだけです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」 17節、「神が御子を遣わせられたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」 と。
 燕は全力を注いで子を育てます。が、「遣わす」のではありません。人間もそうです。
 しかし、神は人間の救いのために独り子をお与えになったのであります。この圧倒的な愛に打たれて原始キリスト教会が生まれたのです。楽園の中で木の実を食べてしまったアダムとイブ、そして楽園を追放されたあと、人類最初の殺人をしてしまったカイン、このどうにもならない人間の原罪(神からの離脱、神への背き)のゆえに救済という大事業を断行された神は、愛するわが子をこの世へ遣わしてくださったのです。
 19節、「光が世にきたのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。二十節、「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。21節、「しかし、真理を行う者は光の方に来る。」
 さて、これで終わりになったら何か物足らないですね。そうです、ニコデモの決着がないという問題です。聖書をよく読んでいる方は、同じヨハネによる福音書の中にもう一度ニコデモが登場していることを想起するでしょう。
 19章38節以下です。208頁。墓に葬られたイエスのご遺体を取り下ろしたいとヨセフが願い出てご遺体を下した現場に、39節、「そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜたものを百リトラばかり持って来た。」
そしてていねいにイエスさまを墓に納めたのです。もちろん今度は、夜ではなく、昼間です。ファリサイ派の国会議員ニコデモは、堂々とイエスさまを信じる者の一人であることを表明したのです・ニコデモの人生はその後多くの苦闘を重ねて行ったことでしょう。
 ニコデモは霊から生まれ、光の方に、神の国に入って行った。明るく、晴れやかに、豊かな人生が始まったのです。
 秋が来たら、土師の土の器から飛び立つ燕の家族を見送ろうと思います。祈ります。

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