エステルの酒宴
エステル記2章15〜18節
 鬱陶しい梅雨の季節ですが、紫陽花はあちこちで七変化を見せています。先日夕暮れの菰池を訪れました。シャロームと反対側の池畔に、中年末期の男性が立っていて、時々パン屑を投げています。そこにアメリカから来たみどり亀が群がってきます。亀があんなに素早く泳ぐ姿を初めて見ました。浦島太郎を乗せた海亀もきっと機敏だったのでしょうね。少し離れたこんもりした木の茂みには、大きな白鷺がいて、じっとあたりを睥睨していました。が、すっと近づいてきて、器用にぱくっパン屑を呑み込みました。あの茂みの中に巣があるのだそうです。その直後、手前の葦の茂みから姿を現したのは鷭(クイナ)です。目の前で出会ったのは、何十年ぶりです。パン屑を咥えては茂みに消えていきます。あの奥で雛が待っているのです。雛が小さなときはあのどでかい白鷺が襲いかかって長い嘴で鷭の雛を串刺しにして食い荒らすそうです。それで鷭の親は警戒して用心深く出たり入ったりしているのです。鴨も群れています。それにしても凄い生存競争です。小さな戦場に出っくわしてしまったようで、その場をしばらく離れられませんでした。その後、行き止まりの道に嵌ってしまって、這う這うの体で帰宅しました。
 ウクライナとロシア、イラクの内戦、イスラエルとアラブ、アフリカの部族間の虐殺、中国と周辺諸国との海域をめぐる紛争、他の動物よりも人間の方が性根が悪い。自分の部族、人種、国家の利得、優越性を誇るナショナリズに依然として煽られています。日本の政権も「強い日本を取り戻す」ときな臭い言動が目立ってきました。
 さて、今日取り上げた「エステル記」は、捕囚の後裔であるユダヤ人の解放を謳った素敵なドラマですが、復讐を肯定する旧約の限界を超えられません。が、捕囚を体験しているユダヤ人の解放を実現した王妃エステルと宰相になるモルデカイが知恵と信仰を貫いて絶対王朝体制の支配から脱出できたことを感謝するプリム祭りの起源を描いた優れた文学作品です。
 内容は、ペルシャ王クセルクセス一世(前488〜465年)の時代にあった歴史的事件について書かれたものであり、時代、人名、事件など細かく記されているのですが、じつは追放される王妃ワシュテイも、次の王妃となったエステルも実在していないのです。しかも登場人物の年齢が百歳を超えていてちぐはぐです。それにプリム祭りは古い文献には出ていません。ですからエステル記は、せいぜい前一世紀終わり頃に書かれたと推測されています。陰謀を抱くハマンの悪巧みに気付いた王妃エステルがいます。捕囚の苦しみの中から生き残ったモルデカイといとこのエステルは二人ともユダヤ人ですが、ユダヤ人への迫害と虐殺を企んでいるハマンの策略からどうやって脱出して、ユダヤ人の栄誉を守り抜き、そのためにエステルが劇的で勇敢な行動力を発揮して、迫害者への復讐をした物語なのです。
 ただし、旧約が肯定する復讐によって、虐殺は七万五千人に及んだと書かれると心がざわざわと騒ぎます。復讐を断ち切る思想にまで至らない点がエステル記の限界でもあり、この問いはすぐれて現代的な宿題なのです。今私どもが抱え込んでいる深刻な問題の一つ、すなわち北朝鮮による日本人拉致問題をどう解決していくのか。突破口を開く具体案を私ども世界のキリスト者こそ提出すべきなのではないでしょうか。ご存知の通り、横田ご夫妻はキリスト者なのです。私どもも積極的に手をつないで一歩ずつ解決に近づきたいものです。神に和解していただいた人間がなすべき仕事はいっぱいあるのです。
 ところでこの花をご存じですか。正門の辺りに咲いているミルトスです。土師町でもここにしかありません。堺市全体でも滅多に見られないでしょう。この密集した花びら、突き出た、雄蕊、整った葉っぱ、やがてなる紫色の果実、お祝いのときにとくに用いられるお祝いの木です。ミルトスはギリシア語ですが、ヘブライ語では、「ハダサ」、 エステルです。エステル記の2章7節を見ると、「モルデカイは、ハダサに両親がいないので、その後見人になっていた。彼女がエステルで、モルデカイにはいとこに当たる。娘は姿も顔立ちも美しかった。」 とあります。
 この二人は、ユダ王国から連行されてきた捕囚の生き残りであるわけですが、どのように危機を克服してきたかは、みなさんが直接にエステル記を紐解けばわくわくドキドキしながら楽しめること請け合います。そして考えてみてください。「神」という言葉が一度も登場してこないエステル記がなぜ旧約聖書に正式に採択されたのか、を。
 エステル記の第1章では、全盛時代のペルシャ王朝が活写されています。
 クセルクセス王の催した酒宴の席で、王は、11節、「冠を着けた王妃ワシュテイを召し出そうとした。」 が王妃は拒否したのです。なぜか、この記事からは詳しいことは分かりません。ある解釈によれば、冠を着けた裸の姿を人前に見させようとしたというのです。いかに絶対王朝時代とはいえ、これでは女は奴隷と変わりません。結局王妃は追放されてしまった。そして次の王妃候補者が集められたのです。この機会を逃すまいとして乗り込んできた、あるいは、ぎらぎらした野望に燃えて娘たちを狩り立てた者たちもいたことでしょう。
 そしていよいよ今日のテキスト、第2章が始まるのです。
 今日のテキストの冒頭15節をご覧ください。「モルデカイに娘として引き取られていたエステルにも、王のもとに召される順番が回ってきたが、エステルは後宮の監督、宦官ヘガイが勧めるもの以外に、何も望まなかった。」 とあります。次期王妃になれるチャンスを逃がすまいと必死になっていたであろう大勢の娘たちとエステルは最初から異なっていた。その謙虚さ、控えめな佇まいこそ彼女の奥深い魅力だったのです。ですから聖書は、続いて15節で、「エステルを見る人は皆、彼女を美しいと思った」とあります。聖書の中で女性の容貌に対して、「美しい」と表現している数少ない場面です。
 17節、「王はどの女にもましてエステルを愛し、エステルは娘たちの中で王の厚意と愛に最も恵まれることとなった。」 のです。「王は彼女の頭に王妃の冠を置き、ワシュテイに代わる王妃とした。」 これが王妃の酒宴なのです。そしてユダヤ人に対する迫害や陰謀・策略とどのように戦い抜いて勝利をおさめたかのどきどきはらはらの活劇が展開されるのですが、ほとんど歴史的事実の裏付けができない。しかもドラマの進行の中に神さまがお顔を見せてくれない。という理由もあって最後まで正典に組み入れるかどうか編集会議で揉めた問題の書なのであります。
 ぜひ自分の目でよくよく読み込んでみてください。みなさんはどう結論を出されるでしょうか。
 私の尊敬するアシュラム運動の指導者、ちいろばの榎本保郎牧師は、著書『旧約聖書一日一章』の中で、次のように発言しています。
 「神は無目的に人を選びたまわない。神の選びや祝福には神の大いなるご計画とご期待が秘められているのである。神はこのかよわい一人の女性を用いて、み民イスラエルを危機から救い出そうとされて彼女を祝福したのである。その大いなるつとめのために、彼女のすべては整えられてきたのである。」 と。
 さすが、と思います。ご自身を誰にでも分かる姿で登場させることなく、歴史を支配し、苦しんでいる人々を救い出す神の指導力をエステルとモルデカイを通して私どもに見せてくださったのです。目に見えないものの最高の存在こそ神さまです。主イエスさまに至っては、ぼんくらの私どもにさえ毎日この目で見ているように日常の現場にいらっしゃいます。
 今日の題名「エステルの酒宴」とは、私どもをイエスさまが招いてくださった酒宴のことなのです。見える日常の現実の現場はたくさんの重荷に満ちていますが、エステルのように全力で真っ向から向き合って行けば、いつもイエスさまが共にいらして祝福してくださるのです。
 つまり、私どもの人生は、苦しいときでも悲しいときでも、そこはエステルの酒宴なのです。ハレルヤ。

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