驚き、とまどい
使徒言行録2章1〜12節
 キリスト教の礼拝や祭りや儀式の暦を追っていますと、みなそれ以前からの自然との交流や農業との関わりを前提に編成されていることが分かります。イエスさまの誕生日と冬至、過越祭りとイエスさまの十字架上の死と復活、小麦の収穫七週祭とペンテコステという具合です。人間の基本的な暮らしは自然の中で始まり、農業・漁業を基盤に展開して来ました。今でもそうです。
 ユダヤ民族も例外ではありません。イエスさまの説教の多くも自然と農業、漁業の営みから材料を引き出しています。「わたしはまことのぶどうの木」はその典型です。
 さて、今日のテキストもまた農業、とくに麦が背景にあります。今年は近畿もすでに入梅に入ったようであり、紫陽花の季節ですが、去年のペンテコステは、5月19日でした。麦との関係から言えば五月中旬ならば麦秋(麦の秋)にふさわしい。梅雨の中での聖霊降臨祭よりは、ゴッホの描いた麦畑にふさわしいのは五月ですね。
 さて、私ども日本人は、米、すなわち稲はよく知っていますが、麦となるとあまり詳しくありません。麦はパン文化なのです。稲作では牛と人間が結びつくので、七夕にも牽牛星が登場します。男という漢字も田んぼの力と書きます。
 残念ですが、稲は聖書に登場しません。
 小麦は、いまは必需品ですが、大麦というと、ビール、あるいはとろろご飯のときの麦めしが浮かび上がりますが、米、小麦に較べると、あまり知識がありません。
 小麦と大麦は共にイネ科ですが、よく見ると葉っぱの形はもちろん、植物としては全く異なる種類であることをご存知ですか。日本人は、実が大きいから大麦、小さいから小麦と名付けました。が、牧畜文化圏では、全く違う名前なのです。パンを膨らませるイースト菌・酵母が入っているのは、小麦のパンですか。大麦のパンですか。どちらでしょう。
 ヨハネ福音書の六章のあの有名な五千人の給食の物語の少年が持っていたのは、「大麦のパン五つ」でした。小麦の三分の一の値段、貧しい少年であったことが分かる。「パン五つ」の五という数字と「五千人」という人数がちょっと意味深げです。五つの大麦のパンが酵母もなしに千倍にも膨れあがったというのです。嬉しく楽しい奇跡物語ですね。
 今日のテキストに真っ先に登場する「五旬祭・ペンテコステ」とは、ギリシア語で50という意味です。アメリカの国防総省をペンタゴンという言い方があるのはご存知ですか。あれは国防総省の建物が五角形なので、そう言われているのです。
 この日は、私どもキリスト教徒にとっては、聖霊降誕日として意味づけられています。春の大麦の鎌入れが過越祭りです。同時に出エジプトの記念日になり、次の日から7週間経った50日目が小麦の収穫感謝の祭りに覆い被さって、聖霊降誕、教会の誕生日となるのです。
 翻って日本の国民祝祭日の多くも自然との関係がありますが、同時に明治以来の天皇家との関係から制定されていることもお分かりでしょう。
 つまり過越祭りがイスラエル民族の誕生日パーティであるとするならば、七週祭(ペンテコステ)は、シナイ山で十戒が与えられた日と規定したユダヤ教の視点に立つならば、イスラエル精神の成立記念日ということになります。
 そして、さらに私どもには、ユダヤ教を乗り越え変革したキリスト教の聖霊降臨日として熱く熱く想起する決定的な記念日となったのです。
 ならば日本の国民祝祭日も、憲法精神に基づいて、民主主義的な祝祭日へと切り換えていく努力をすべきです。例えば8月15日を「平和を志す日」というように。現在は、何が何だか分からない休日が多すぎます。
 さあ、聖書の描写に注目しましょう。
 2章1節以下を御覧ください。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、」 2節「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。」 ここの1節から判断すると、弟子たちがエルサレムの町中のどこかの家の中にいた、座っていた。彼らの習慣からすれば椅子ではない。日本人のように正座していたのでもなく、胡座をかいていたことでしょう。アラブのあの大きな長い衣装は、座っても見苦しくはない。
 そして、極めてドラマチックに「激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ」て来たというのです。聖書の世界においては、風がもうひとつの意味をもっていることはご存知でしょう。神の息吹であり、霊(聖霊)でもあるのです。それがしずかに降って来るのではなく、激しい風であり、その音が家中に響いたというのです。私どもの常識で言えば、落雷を伴った雷雨の襲来の場面に近い。
 ここだけでも驚いて身体が震え上がるのに、さらに、3節は、「そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」 とあります。炎や火の登場は、神の顕現であることはシナイ山の芝生の上に燃え続ける火でお馴染みです。あるいは、エジプト脱出時の火の柱を想起すればよいでしょう。
 権威あるものの出現は、私どもを畏怖(尊敬と恐怖が同時に生まれる現場感覚)させるものです。舌のようなものは、もともと一つの塊だったのでしょうか。だから「分かれ分かれに現れ」という表現になったのでしょうか。とすれば分かれるとはさようならの「別れ」もそんな意味に通じるのでしょうか。元来一つのものが離れ離れになることなのでしょうか。
 4節、「すると、一同は聖霊に満たされ、″霊〃が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」 というのです。舌と言葉は同類語です。二枚舌、舌が滑らか、という言い方もあります。そんなことはあるはずがないと言って、13節、「あざける者もいた」のです。
 これがどういうことなのかについてはいろいろな解釈がなされてきましたが、こうだという正解はありません。さきに表現という言葉を私は、使いました。これはドキュメンタリー的な事実の描写報告ではない。カメラのない時代に彼らが体験した聖霊降臨の圧倒な感動をどう表現したらよいのかさんざん考えたあげく、このよう非現実的な、しかし超現実的な表現を持つ迫真性を実感しながら文字に移し変えたのです。どうですか。じっくり読むと新たな奇妙な現実感を持ってのしかかってくる。私どもも、「あまりにもショックで言葉がない」「どう表現したら良いのか分からない」と口に出したことがあるでしょう。あの体験に近い。12節、「人々は皆、驚き、戸惑い、『これはどういうことなのか』と互いに言った」。
 超現実主義的体験の描写と言えばいいでしょう。
 そこは、世界中のディアスポラ(離散したユダヤ人)たちが帰ってきた七週祭の現場であり、そこにはユダヤ教への外国人改宗者もいたにちがいありません。
 この事実を踏んまえて、記者ルカは、主にある生きる喜び、すなわち福音宣教の始まりと決意を新たにして、この聖霊降臨の決定的な場面を執筆しているのです。
 すなわち、イスラエルを超えて異邦人の中へ」、 ローマまでを視野に入れて宣教の出発への始まりが描かれたのです。聖霊降臨は、キリスト教の誕生であり、証しの共同体である私どもの命がけの宣教のスタートへの祝福であったのです。
 さあ、感動を新たに、宣教の旅へ出て行きましょう。
 炎のような舌が一人一人の上にとどまったということは、聖霊の力に満たされ、押し出されて、宣教に飛び立つということなのです。
 けして自力や私たちの自己満足や努力で実現できるものではありません。
 来週は特別伝道集会です。来月には半日修養会もあります。証しの共同体である私どもは、聖霊の力に導かれて伝道に励みましょう。
 炎のような舌は、すでに与えられているのです。

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