思い悩むな
マタイによる福音書6章25〜34節
 紫陽花の蕾が一日一日大きくなっていきます。「この紫陽花、何色だったけ。青それとも純白の白?」 去年植えた紫陽花はまっ白だったのですが、今年は果たしてどうか。土壌がアルカリ性か、酸性かによって、白あるいは青になってしまうのです。
 今日のテキストには、二七節「野の花」、30節「野の草」という言葉が出ています。この「野の花」がまっ白な百合のイメージであるのはどうしてか。西洋宗教画からの影響です、が、決定的なのは、「野の百合」という明治二〇年代の文語訳聖書の刊行です。
 現在でもフランシスコ会訳は、「野の百合」です。
 が新共同訳は、「野の花」であって百合ではない。文語訳に慣れている人は、とても残念がっています。現在の研究によれば、二千年前のイスラエルには百合は無かった。在ったのは百合科に属するあるいは百合科に近いアネモネ、イチハツ、水仙、野生のチューリップ、クロッカス、グラジオラス等を指しているらしいのです。讃美歌の「谷の百合」や「うるわしの白百合」は現実とは違うのです。聖書研究は、このようなこともせねばならないのですが、それで滅びてしまう言葉ならば聖書は、空しい言葉の世界になってしまうでしょう。そうではない。いかなる学問的批評にも耐え抜いて滅びないところに聖書が人間への救い、福音の書であることが確認されつづけるのです。
 つまり「野の百合」という言葉から連想される山百合やカサブランカという豪華華麗なイメージを放り捨てて、あらためて読むことが大切なのです。
そのためには、「花が美しい」あるいは「美しい花」という表現が聖書にあるのかどうかを調べる必要があります。答え、一つもありません。
旧約1345頁、エゼキエル31章3節を見ていると、

  見よ、あなたは糸杉、レバノンの杉だ。
  その枝は美しく、豊かな陰をつくり
  丈は高く、梢は雲間にとどいた。

 と、あります。花ではない、枝なのです。
 あるいは、旧約1386頁、ダニエル書4章8節、

  その木は生長して逞しくなり
  天に届くほどの高さになり
  地の果てからも見えるまでになった。
  葉は美しく茂り、実は豊かに実って
  すべてを養うに足るほどであった。

 と、あります。
 一番圧倒的なのは、イザヤ書52章7節の

  いかに美しいことか
  山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。
  彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え
  救いを告げ
  あなたの神は主になられた、と

 これらから見えて来る共通点は何でしょうか。それは、大きく、高く、豊かに実って、他者を養うもの、ということになりそうです。
 私どもが常識的に考える「美しい」という意味とはほとんど無関係なのです。
 エルサレムにあった「美しの門」も、門が美しいのではなく、門の向こう側に、訪れる者を豊かに養ってくれるものがあるよ、と告げている門のことなのです。今日の説教の後に歌う「うるわしの白百合」は、イースター
の有名な讃美歌ですが、その冒頭の一行をよく見ると、「美しい白百合」ではありません。「うるわしの白百合」です。これは翻訳者の勝利です。「うるわし」という古語を生かしています。その意味は、完全に整っている
、見事である、晴れやかである、正真正銘である、まちがいない。「いかに美しいことか。/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。」 をあらためて思い起こします。
 さて、私どもは、もう今日のテキストの前に立っています。イエスさまのガリラヤ湖の山の上の説教には群衆が押し寄せています。そのほとんどは生活のたつきがあるような、ないような貧民だったのです。しかも病人も多い。そんな貧しい群衆が、対象だった。とすれば、彼らの要求は、「今日のパンをくれ」であり、「着るものをくれ」であったのです。そんな群衆の声とがっぷり組んだイエスさまの答えは何であったか。
 25節、「だから、言っておく。」 この「だから」は、24節を前提にしている。「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」。 この世の物質(パンやお金)に飢えている人々に、神を求めよと厳しく迫っている。「イエスよ、あんたは分かっていない。飢えている俺たちの現実があんたには見えていない」と。
 が、イエスさまは一歩も退かない。25節の続き、「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」 イエスさまの答えはとても過激であります。
が、じつは物事を根本的に考えて直球で投げ込んで来るのです。食べたい、飲みたいと叫ぶ人々に向かって、命が一番大切であって、そこから出発することだ、と答えたのです。「ううん、そう言われればそうなんだが、とにかく腹ペコなんだ。頼む、どうにかしてくれ」と。
 イエスさまは、ここで凄い比喩、それも空の鴉や大地のアネモネの現実から大きく飛躍した比喩で人々に語り掛けるのです。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」と。種を蒔き、刈り入れをし、倉に収めるのは鴉ではない。農民である人々の厳しい現実そのものなのです。が、この比喩を、比とは思っていない群衆は、「じつにその通りだ。なのに食うだけで精一杯、俺たちはふらふらだ」と実感を深めていく。これはある種のマジックです。鳥たちもまたじつは必死の生存競争の現実を生きているのですが、そちらの現実は掻き消えてしまって、「イエスさまは俺たちをじつによく知っている。そうだそうだ。そんな鴉を天の父は養ってくれているんだ。俺たちは父の子なのだから、もっともっと面倒見てくれると言っている。ありがたい。」 と頷いたとき、二七節、「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」 と畳み込まれて、そうでなくても病気の心配、税金、戦争など毎日苦労ばかりの暮らしの現場で、人間の命の短さをいやなほど味わわされている人々は、イエスさまの言葉に納得せざるを得ないのでした。
 すると、「なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。」 
 彼らはさらに共観を深めて、「その通りだ。」と。
 が、イエスさまは、彼らを喜びの中に野放ししてはいません。29節、「しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」
 なんという見事な比喩でしょう。かれらイスラエルの伝説的なソロモン王でさえ「この花の一つほどにも着飾っていなかった。」 と断言したのです。豪華極まりなかったソロモン王が、野の花よりも劣っていただって、そんなはずは在るまいと反撃したかったのですが、イエスさまの迫力と言葉が強く深く入り込んできて心動かされてしまったのです。「俺たちは父の子なんだ」という感動が襲って来たのです。
 ここで「着飾る」と言う言い方がおもしろいですね。日本人なら普通男性が着飾るという表現はしないでしょう。人の栄華は大したことではない。着飾ることは、美しさとは無関係なのです。
 人間の手で着飾ることは、単なる富の見せびらかせと大差がないでしょう。それよりは野の花を咲かせた神さまの見えない配慮の方がはるかに勝っているのです。
 続く30節、「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。」
 砂漠地帯の野の花の命はじつに短いのです。
植物の種類が多くて、四季それぞれ豊かに咲く日本でさえ、「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」と嘆じた林芙美子を想起してしまいます。野の花は所詮野の草であり、たちまち炉に投げ入れられてしまう。人々は命の短さを噛み締めているのです。
 ちょうどその時、31節、「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って思い悩むな」とイエスさまは駄目押しをして迫って来ます。思い悩むとは、あれやこれやと選択の決断が出来ないことですが、詮ずるところ、天の神か地上の富か、どちらかを選ぶことなのです。
 33節、イエスさまの力強い命令です。
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」 この場合の神の国と神の義を求めるとは、神の国と義を、この地上に実現させるために全力投球しなければならない。全力投球しなさいという激しい命令なのです。  
 そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」 34節、「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
 この短いお話の中に、「思い悩む」は、6回も出て来るのです。そしてイエスさまの答え、ただ一つ、「思い悩むな」です。禁止命令なのです。すべてを主に委ねて、突き進むとき、主はほんとうに与えてくださるのです。
 私どもは、自分勝手に表面的な栄華を夢見てはならない。カサブランカや山百合の豪華絢爛に飲み込まれてはならない。
 あの高くて天まで届く、立派な木、信頼して止まないその木こそイエスさまなのです。つまりイエスさまの言葉と行動そのものが美しいのです。
 私どもは、美しい木である主イエス・キリストを証しする一日一日を生き抜いて生きるのです。来週は聖霊降臨日、あの日から教会が正式にうち建てられたのです。ハレルヤ、ペンテコステ。

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