取り押さえに
マルコによる福音書3章20〜30節
 春になってから三ヶ月間、例年の20%しか雨量が達していません。春の雨の潤いがほしい。
 今年も畑の準備、種蒔きが遅れてしまいました。机上の楼閣とまでは行きませんが、ガーデニングの計画はびっしり描くのです。が、実際はほとんど何もできず、小林のおばあちゃんの歌碑のまわりの手入れと木香薔薇の手入れ、藤の刈り込みだけで、とうとう晩春を迎えてしまいました。永菅節姉の後塵を拝したいと思い、早朝の草抜きにも励んでいるのですが、何事もほどほどに、と、心得なければ、と思っているうちに、何事も遅れがちになっています。
 一方では、あちこちの会議の合間を縫って、、読んだり調べたり書いたりするのです。
 と言うわけで、水辺の草原に憩うひとときがなかなか実現しません。池やニサンザイ古墳の周辺を歩く時間がなかなか見つかりません。大地に恵みの雨の潤いが必要なように、今私には自分の内部に溢れてくる泉が必要なのです。
 「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり」というイエスさまのみ言葉が痛いように染みこんでくる毎日です。もうすぐ水と紫陽花の季節、元気が出そうです。
 さて、今日もマルコによる福音書、イエスさまのガリラヤ湖周辺での伝道場面です。壮年イエスさまの元気いっぱいの伝道は、同時に周りからの誤解にも取り巻かれる時があったのです。今日のテキストは、3章20から30節、小見出しは、「ベルゼブル論争」、 ベルゼブルって分かっているようで曖昧な言葉です。フランシスコ会訳では、「イエスの身内」、 「イエスとベルゼブル」と別々になっています・この小見出しの方が親切。さらにある訳では、「イエスの家族が誤解する」となっていてさらに分かり易いのです。
 新約聖書の66頁の小見出し「ベルゼベル論争」の下の()の中には、マタ12 22〜32、ルカ11 14〜23、12 10とあります。共観福音書にはみな登場してくるショートショートなのです。が、マルコだけが伝えている部分があります。
 フランシスコ会訳では、小見出しが二つあるように二つの記事になっているのです。
 イエスさまの出現は、ある意味では、ガリラヤ湖の波が騒ぎ立ったようなものです。周辺の各地からイエスさまの力に満ちた言葉と行動に直接触れたいと熱望する人々が押し寄せルようになりました。彼らの群れはみるみる膨れあがって、イエスさまに向かって求心的に雪崩れ込んで来るようになったので、六五頁の三章七節、「イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆ガ、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。」 とあります、つまりイスラエルの首都のエルサレムから現在のシリアまで、広範囲に渡っているのです。その多くが病人でした。病気と障害を癒してもらうこと、これが古代世界のもっとも大きな願望だったのです。
 11節、「汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、『あなたは神の子だ』と叫んだ。」 
 マルコ福音書の1章1節は、「神の子イエス・キリストの福音の初め。」 これだけです。マルコの福音書のテーマは、「神の子」の言葉と行動なのです。
 このあと、イエスさまは、十二人を選んで弟子とします。彼らを「使徒」と名付けられた。3章14節、「彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」 あれ、何か足りない。その通り、イエスさまはまだ自分が何者であり、何のためにこの世に来られたのかは露わにしていなかった。時が満ちていなかったのです。ただし、悪霊どもは、・イエスさまを「神の子だ」と見抜いていたので厳しく戒められたのです。イエスさまが選んだ十二番目、最後に選んだのがユダであった。19節「このユダがイエスを裏切ったのである」。 記者のマルコは、イエスさまとユダとの不思議な関係を福音の主軸近くに据えて、悲劇的なドラマを演じさせていったのであります。
 このイエスさまの癒しと神の国の宣教は、肝心のイエスさまの肉親から理解されなかったという事実をマルコは正直に描いて行った。
 いよいよ本日のテキストです。
 20節、「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。」 優れた仕事を成し遂げるためには、十分に休息を取る、楽しく十分に多くの人々に奉仕するために、マザー・テレサは、しっかり食べることを強調しました。「腹が減っては戦は出来ぬ」のです。二〇節の背後にはこの意味が息づいているのです。二一節、その時、「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変なっている』と言われていたからである。」 普通だったら息子がおかしくなっていると聞いたら父親がまっ先に飛び出して来るのではないでしょうか。そして母親は息子を信じているがゆえにおろおろしながらも息子に哀願するような表情でそばに来るでしょう。ところが、聖書にはそんな描写は何もない。てて親なしの母子家庭は、世間の言うことをそのまま受け入れている。どう考えてもイエスさまを弁護し助ける強い覚悟や意志は見当たらない。だから、「イエスの家族が誤解する」という小見出しが出現するのです。一番古いと言われるマルコ福音書は、イエスをめぐる家族の行動については幾つもの伝承を知っていたはずです。これを書けば、イエスさまの家族の評判を落とすかも知れないという危惧も抱いた筈です。にもかかわらず生前のイエスさまを誤解した家族、イエスさまが処刑されて甦って初めて他の弟子たちと共に信仰者として立ち上がった。このドラマの経過を正直に書いたのがマルコ福音書なのです。
 私ども一般日本人は、カトリックの解釈を音楽などを通して曖昧に受け入れているので、アベマリア(マリア賛歌)に陥り易いのです。聖母マリアという表現にたわいなく乗っかってしまうプロテスタントの信徒までいるとなるとキリスト教信仰は揺らいでしまうでしょう。聖なる母、聖母マリアという視点は、私どもにはありません。ここに登場するイエスさまの家族はごく普通の平凡な家族であり、残念なことにイエスさまを理解できなかった。これが普通の平凡な家族像です。父ヨセフは、おそらく病死したのだと思います。ここにも二千年前の庶民の暮らしの現実の一端が見えている。その現場でイエスさまはお育ちになったのです。だからこそキリストとしての使命を自覚されたのであります。
 22節、「エルサレムから下ってきた律法学者たちも、『あの男はベルゼブルに取りつかれている』と言い、また、『悪霊の頭で悪霊を追い出している』と言っていた。」 なんとかしてイエスさまを陥れたいとぴったりつききっていた律法学者たちに対しては、イエスさまはまっ向切っての反論を展開します。二六節、『サタンが内輪もめして争えば、その家は立ち行かず、滅びてしまう』と。
 ただここで曖昧なのはベルゼブルとサタンです。ベルゼブルとは悪霊の親分のことで、サタンは反対者という意味ですが、ここのショートショートとでは、同じ意味で使われています。と言うわけで内輪もめなのです。そしてイエスさまは止めを差すように、29節、「しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」 と。マルコ福音書は、霊を重んじています。イエスさまが洗礼を受けた時、1章9節、「天が裂けて霊≠ェ鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。11節、「すると、あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。」 イエスさまの本当の権威を分からぬ学者たちへの決定的な断罪なのです。これが彼らとの別れであり、彼らがユダを唆す契機にもなる。
 私どもの信仰は決して安定した気休めではなく、病人たちが直して下さいと迫るあの切羽詰まった叫び声でなくてはならない。イエスさまの側にいられることは無風地帯の安心観ではなく、命掛けで与えられる充実であるはずです。
 今日の続きの部分、小見出し「イエスの母、兄弟」は、何度読んでも緊張します。イエスさまの厳しい言葉です。33節、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」。
 34節、「見なさい、ここにわたしの母、兄弟がいる。」 35節、「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」
 私どもははたして肉親を越えられるか、この厳しい言葉の挑戦を受けて立たねばならない。でなければ、国家、人種、文化が異なる事実を認めて、異なるままに同時にそれらを越える道を手探りしながら、世界中のキリスト者が神の家族としてお互いを受け入れなければならない。ということは、神の家族は、人類の夢では無く、実現せねばならない義務なのです。
 「取り押さえに来た」とは、逮捕すると同じ意味なのです。逮捕では無く、迎えに行く。そこから新しく出直す機会を見つける。その困難な方法を手に入れる道を探しましょう。じつは、その道はイエスさまが用意して下さっている。イエスさまへの道は、受け入れることによって見えて来る。
 今日まで見えなかった道が見えて来る。これこそ信仰の道なのです。

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