実に大勢の人
マルコによる福音書 2章13〜17節
 木香薔薇が終わり、その他の真っ赤な、あるいはピンクの薔薇、ダビデの星の群落も終わりました。駐車場のフェンスの前の鉢に植えられたカラシダネが細長い筒状の黄色い花をつけています。空の鳥「鴉」も宿る大木になるという比喩はあまりにも大げさですが、だからこそ愉快で楽しく、ひょっとしたらほんとうに大木になるかもしれないなあと思ったりします。
 さて、韓国のセオル号の沈没事故は、あまりにも悲惨であります。船会社による殺人事件として訴訟されるでしょうが、失われた命は帰っては来ません。命の重さをこれほどありありと実感させられたことは最近にはない。携帯に刻まれた若者たちの肉親への愛と別れの言葉は、私どもの魂を震わせたままです。
 事故が起こった原因はあまりにも明々白々、船荷の重量オーバーです。改修工事の結果、船の重心が上部に移動していたにも拘わらず放置していたという驚くべき無責任体制が明るみに出ました。重心とは全体の均衡、つりあいのことです。
 
 正しい重心の位置を保つことは、私どもにとっても心していなければならない大切なことです。そしてこれから歩いて行く方向と明確な目標がなくてはならない。それが健全な暮らしの姿であるべきなのです。
 が、現実は絶えず脅かされている。それも人間によって、です。セオル号だけではない。トルコの炭鉱事故、ウクライナの南部、東部の帰属をめぐる一触即発の危機的状況。そして何よりもこの日本で起きている憲法解釈をめぐる危機的状況とフクシマ原発をめぐる苦悩。みんな人間が引き起こした問題なのです。    
 真っ暗になりそうですが、目を瞑ったままでいいはずがありません。私どもごく普通の市民に出来ることはないのでしょうか。
 私どもができること、為すべきことを今日のテキストからヒントを捜して見たいと思うのです。
 そもそもマルコ福音書は、いつ、誰が書いたのかというと、二千年前、西暦70年頃、ユダヤ民族の心の砦、エルサレムの落城後、マルコと呼ばれる人物が、そのくらいしか特定できません。この著者のマルコも正確には素性は分からない。共観福音書の中では一番古いというくらいしか分からない。
 ただしマルコ福音書のテーマははっきりしています。すなわち、人間たちの悲惨な状況、ローマ帝国による植民地化、戦争、奴隷化、搾取、反乱の状況を見ていらした神が、人間の無残な状況に光を与えるために一人っ子のイエスさまを救い主(メシア)として歴史の現場に送り込んで下さった。そのイエスさまの命が犠牲となった、十字架で処刑された事実を通して、人間が生きる決定的な出発点となったのです。すなわち凄まじい処刑の現場で息を引き取られた十字架のドラマをすぐそばで見ていたローマ人である百人隊長が思わず告白した「本当に、この人は神の子であった」という信仰告白。この信仰告白が引き金の一つになる。そして復活したイエスさまと弟子たちとの決定的な出会いによって教会が生まれ、教会は神による人間の救いを証しする共同体になったのであります。これがマルコの執筆動機でありテーマであることは疑いありません。
 そのイエスさまの元気いっぱいの伝道活動の一場面が本日の個所なのです。
 マルコによる福音書2章13から17節、新約聖書六四頁です。冒頭13節、「イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。」 「再び」とあるようにこのあたりは、壮年イエスさまが特別愛着を覚えたガリラヤ湖の周辺なのです。
 お手元の聖書の終わりにある地図6「新約時代のパレスチナ」を開いてみてください・上の方、北部のガリラヤ湖がお分かりですか。現在のイスラエルの決定的な生命線であります。そして、左下、南西部のナザレがイエスさまの家族が暮らす小さな町です。その少し上、東北部のカファルナウムがお分かりですか。ここは、物流の要衝地であり、ヘロデ・アンテパス領主の領内、ここを通る者から通行税を取る収税所がある。つまり支配者ローマ側に取り入った、ユダヤ人の裏切者、民衆の敵が徴税人たちであったのです。彼らは徴収した税金の一部を私物化するのが日常茶飯事であった。間違いなく汚れた人であった。罪人とは厳格な律法主義者たちから軽蔑されていたはみ出した人たちを指していた。ここが今日の舞台です。
 では、再び新約聖書、64頁に戻りましょう。
 13節、「群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。」 14節、「そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」 
 アルファイの子レビ、レビはギリシア語ではマタイだと言われています。マタイによる福音書の並行記事によればこの徴税人の名前がマタイです。レビとマタイは同一人物であるようです。
 どちらの記事を読んでも、おそらく共通していることは、イエスさまが、この徴税人の名前を知っていた事実です。と同時に徴税人のマタイもイエスさまに関心があった。でなければどうしてイエスさまの呼び掛けに応じて、ただちに徴税人としての甘い仕事をうっちゃってイエスさまについて行くことができたのでしょうか。少なくともイエスさまの噂を聞いていた。民衆から蔑まれ、憎まれている徴税人というつらい、後ろめたい立場を理解してくださっている方らしいと確信していたに違いありません。この機会は二度とないかも、と思った時、マタイはすべてを放り出していたのです。
 続いて15節、「イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。」 
 レビの家は、おそらくカフェルナウムにあったのでしょう。聞きつけた仲間の徴税人たちもやってきた、あるいはレビに招かれたのでしょう。さらに罪人たちもやってきた。この場合の罪人とは、旧約聖書的な理解による言葉です。つまり旧約の律法を守らない人たち、あるいは守れなくてはずれ者になってしまった人たちの名称です。徴税人も罪人もユダヤ人社会からのはみ出し者ということになりますが、そう区別して蔑んで安心する、これがいつの時代にも通じる差別意識なのです。この差別を見抜いていたのがイエスさまです。自分たちを理解して下さっていると直観したレビは自宅に招いて歓迎の食卓を用意したのです。「実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。」 大勢とは何人くらいなのかは分からない。口うるさいファリサイ派の厳格主義の律法学者たちもイエスさまの行動を監視するためにレビの家の食卓の現場にまで押し寄せて来ていたのです。イエスがまたしてもへんてこな行動をするのではないか、と。
 16節、「ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、『どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った。」
 自分たちは厳格に律法を守っている、言わば「義の人」だと思い込んでいるので、徴税人や罪人たちとのちゃんぽんな食卓を拒否していたのである。 
 17節「イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。』 と。あはははっ、あまりにも当たり前です。こんなことをイエスさまはどんな顔をして言ったのでしょうか。冗談にもならない。親父ギャグ以下です。それとも律法学者に対する皮肉でしょうか。ユーモアにしては全くつまらない。
 じつはこれはイエスさまの大まじめな言葉だったのです。「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である。」 
 続く言葉に注目してください。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。 その瞬間「うわあ」と声をあげて喜んだのは罪人や徴税人たちでした。が、そのとき律法学者たちは解せない浮かない表情になったのです。もしかしたら、病人とはおれたちのことではないかとふと自問せずにはいられなかった。「正しい人を自認して来た自分たちであったし、だからこそイエスを批判してきたけれども、なぜこんな汚れた者どもの現場までわざわざ足を運んできたのだろう。イエスの言葉と行動にはいつも気になる所がある。ほんとうにおれたちは正しい人と言い切れるだろうか。否、止めよう。これ以上考えたくない」。 
 そんな心の動きをイエスさまはじっと見詰めていたのです。
 が、聖書はそこでぷつんとちょん切れています。みなさんはどう受け取りましたか。
 イエスさまは医者なのです。そして私どもは認めたくなくても、実はひとり残らず病人なのです。罪人なのです。薬師如来という薬壷を持った仏像があるのをご存知でしょう。あらゆる宗教に於いて神々は医者なのです。
 ここからどうするのか。それは私ども一人一人の物語です。
 この危機的地球の状況の中で、イエスさまにまっすぐ従うと表明した私どもですが、レビに呼び掛けられた時のようにイエスさまは、何度も何度も呼び掛けてくださっている。あのときの素直さを失っている私どもを知っておられるからです。「わたしに従ってきなさい」と、私どもの自覚を促してくださっている。あらためて、何を、どうなすべきかを逆に私どもは、何度も問われている。
 さあ、力と愛と思慮分別の霊を与えられている私どもは、勇気をもいただいた者として、この地球の管理を委ねられた人間として立ちあがりましょう。今日こそ決断の日です。

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