この分派については

使徒言行録 28章17〜22節
 四月下旬七三歳になりました。昭和二〇年代頃(敗戦後十年間くらいまで)でしたら、もう地上での暮らしは終わっていたことでしょう。その点ではじつにありがたいことです。こんなに長く生きられて、たくさんの経験をさせていただき、いまなお人生に挑戦することができてほんとうに嬉しく思っています。
 と同時に、考え込んでしまうことも増えています。というのは、長生き出来ている分、人間としての成熟が出来ない、否、隠居という言葉が死語になってしまって、十分に生きたよという感慨を持つ機会がないままちょん切れて、ハイそれまでよ、ではないかという強い不安があります。いつまでも未熟なまま、後輩たちに残す言葉を持てないまま終わっていく予感がするのです。そんな贅沢な不安は見苦しいと言い切れるでしょうか。もう死ぬことは目の前であるはずなのに射程距離にあるという実感がないということが、私には不安なのです。
 いかにきちんと死ねるか、死ぬことは人生の最後の大事業なのです。これを疎かにしたくない。
 さて、今日は使徒言行録の最終章、言わばパウロ伝の幕の降ろし方が大切なのです。偉人伝ならば、人生の最後、死ぬ場面が必ず登場します。ところが使徒パウロの最後は伝承はありますが、書かれていない。同時代のルカが執筆者なのに何故書かなかったのでしょうか。
 では、テキストに入りましょう。ついにローマへの到着です。福音書的に言うならば、いよいよエルサレム入城なのです。28章17節以下、小見出しは、「パウロ、ローマで宣教する」です。イエスさまが訪れることがなかったローマ帝国の首都、当時の世界の中心地なのです。但し、パウロは囚人として入城しているのです。前章の最終行、16節を見ると、「わたしたちがローマに入ったとき、パウロは番兵を一人つけられたが、自分だけで住むことを許された」とあります。そこが兵舎の中なのか、ローマの市内なのかは全く分かりません。パウロは囚人でありながら自由に行動できるローマ市民でもあるという囚人都市民の両域に渡る不思議な人物であったのだろうと思われます。
 17節、「三日の後、パウロはおもだったユダヤ人たちを招いた」。 これはどういう意味でしょう。第一線、重要な社会的な地位を占めている人たちという意味です。この中にはユダヤ教のラビ(司祭)もいたはずです。同17節、「彼らが集まって来たとき、パウロはなぜ自分がローマにきたのか、その理由を三点に纏めて説明(あるいは弁明)しますが、それ以前の内容とは微妙に異なっています。第一、「わたしは、民に対しても先祖の慣習に対しても、背くようなことは何一つしていないのに、エルサレムで囚人としてローマ人の手に引き渡されてしまいました。」 と言っていますが、じつは、千人隊長によって助けられたのです。言行録21章37節以下で描かれています。第2に、18節、「ローマ人はわたしを取り調べたのですが、死刑に相当する理由が何も無かったので釈放しようと思ったのです」と述べていますが、読んでお分かりのようにまだ釈放されておらず、囚人なのです。第3に、19節、「ユダヤ人たちが反対したので、わたしは皇帝に上訴せざるをえませんでした。これは決して同胞を告発するためではありません」とあります。が、これは、言行録25章9節以下によれば、じつは、総督がパウロの裁判をエルサレムで行おうとしたのに、パウロ自身が皇帝に上告したのでローマ行きになったのでした。」
 何故こういう微妙な相違点が出て来たのでしょうか。
 それは、言行録の筆者がルカであったからです。ルカはご存知のように医者であり、原始キリスト教史の最初の歴史家でもあります。その筆者が言行録の以前の部分と微妙に異なる弁明を書いている。ということは、きわめて意図的であったということです。
 そうです。パウロがどのような最後を遂げたのかは知っていたはずです。少なくてもかなり蓋然性の高い資料は握っていた。
 とすれば、この微妙なずれの背景には何があったのか、それは、異邦人への伝道史を書こうとしているルカの願望と確信に基づいているからです。すなわちパウロによるキリスト教の世界化の道筋を論理化しようとする挑戦的な行為の結果が28章、最終章なのです。英雄の死を書くのが目的ではない。イエスさまの御心を歴史化することであったのです。
 具体的に言えば、ルカが描いたパウロの弁明の部分で言いたいことは、イエスさまとパウロの共通性だったのです。伝承通りにパウロが逆さ十字に磔にされて殉教したのだとすれば、ユダヤ支配層とローマ帝国に挟み撃ちにされて処刑されていったパウロは、イエスさまの受難と死のドラマとダブルイメージとなって私どもに迫ってくるのです。
 19節の「決して同胞を告発するためではありません。」 も、彼らを赦し給えと言うイエスさまの祈りに重なるのです。
 そしてパウロはいつもの卓越した弁論術で締めくくる。20節、「だからこそ、お会いして話し合いたいと、あなたがたにお願いしたのです。イスラエルが希望していることのために、私はこのように鎖でつながれているのです。」 と。
 「イスラエルが希望していること」とは何でしょうか。それは旧約の後半を貫くメシア待望論であり、それを実現したイエス・キリストによる復活を指し示しているのです。
 ここまで辿ってみると、パウロの天才的な弁術に圧倒されるのですが、使徒パウロは、いささか過剰な熱情と確信に乗り過ぎていたようにも見受けられます。ユダヤ人の反応は今一つでした。とくにもっとも中心的なイエスさまの福音については、22節、「この分派については、至るところで反対があることを耳にしているのです」と答えたのです。これが皮肉なのか、まったくの無関心なのかは、分かりませんが、一般のユダヤ人にとってはキリスト教が成立したという認識はほとんどなくて、ユダヤ教の一部としてしか関心を持たなかった。あるいは、ユダヤ教からはみ出した分派、イエスを崇めるナザレ派としてしか関心を引かなかったようです。それも大した問題では無いという認識だったのです。 ですから、福音書がときどき福音を聞いた人々の反応について指摘しているように、ここでも24節、「ある者はパウロの言うことを受け入れたが、他の者は信じようとはしなかった」のであります。真実はつねに少数者にしか受け入れられないものであり、ゆえに革命的なのです。真実なるものの伝播の結果は、神さまだけが知っていらっしゃる。私どもにできうることは命掛けの証しのみです。教会はそのためにあるのです。
 こうしてその時、パウロは、初めてローマにいるおもだったユダヤ人の群れに向かって、イザヤ書の預言を引用しながら、ユダヤ人への決別を語る説教を展開したのであります。
 が、じつはローマの中にも教会はすでに成立していたのであり、ユダヤ人と原始キリスト教の信徒たちとの間にはもめ事もあったのです。が、執筆者ルカは、ここでも異邦人のための使徒パウロのドラマチックな生涯を描き出すために、つまり辻褄を合わすために、ローマでの初めての説教としてこの部分を語るのであり、教会という言葉も使わず、まだ教会はなかったという設定にして、ここからがパウロ伝道の真骨頂、そしてパウロの生涯を一貫させようと意図したのであります。
 なぜなら、二八節の結論に連続させるのが目的なのです。「だから、このことを知っていただきたい。この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです。」
 そしていよいよパウロの最後に向かうはずですが、突然言行録は終わりを告げる。
 30節、「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで」と切り出しています。ということは丸二年後、正式な裁判があったか、伝承通り、逆さ十字の処刑にあって殉教したか、それとも、謎は解けないでしょう。確かなことは、最後の丸二年間、31節「全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え」ということだけです。これがルカの言いたかったことなのです。だから題名は、「使徒言行録」であり、その使徒の死ぬ場面は省略されたのです。処刑よりも殉教よりも、伝えたいことは、二つのみ。ひとつ、伝道の自由。ふたつ、神さまの言葉は鎖でつなぐことは出来ない、ということです。
 そろそろ土師村に初夏の匂いがしてきます。肝心の聖霊降誕節は、一ヶ月後に迫っています。聖霊のお助けによってのみ、真実の伝道は決定的な力を与えられるのです。夏に向かってますます伝道に励んで行きましょう。

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