海錨
使徒言行録27章13〜20節
 いよいよゴールデンウイーク。五月の新緑の山や海、あるいは都市の賑わいを求めて、皆さんは、お出かけになりますか。
 私自身は大阪教区の定期総会、そして連れ合いたちが開催する第三回京都アート展覧会の手伝いや、詩人クラブの関西大会での挨拶など、びっしり予定が詰まっています。大好きな自然との触れあいは、もっぱら教会の庭です。今年は、とくに薔薇とマーガレット、蘭、スオウ、レモンの花、ダビデの星、シラー、カラシダネ、など、花を見るだけでも楽しみいっぱいです。
 が、こんな嬉しい春たけなわの時、韓国西南部の珍島沖で起きたセオル号沈没事件が衝撃です。しかも日本が製造した客船の中古品だったという報道でいっそう心痛めた日本人も多くいることでしょう。救命具を身に纏ったまま海底に沈んでいった高校生たちや一般乗客たちを思うと、いたたまれません。
 あらためて海が世界を結んでいる事実と、その海を自由に行き交うことの難しさと困難について考えずにはいられません。
 かつて1979年の早春、私は36歳でした。韓国での一年間の教育の任務を果たして、帰国するので、韓国からの船路を選んだのでした。
 先ずは、韓国のモッポの港から済州島(チェジュ島)まででした。今思えばあの時と今回のセオル号の後半の船の航行図は同じだったのです。あの時も日本船の中古品であり、中古のミュージック・ボックスまであった。ご遺族の方々は、今日も珍島の体育館で過ごしていらしゃる。
 今日のテキストは、地中海の海難事故と脱出がテーマですが、なぜ出発から海の物語なのかは、皆さんがご存知の通りです。
 そもそもローマを目指したのはパウロ自身であり。なんとかしてローマ帝国の首都ローマに福音を伝えたいという熱い宣教の幻の実現だったのです。ご承知のように、パウロは、ユダヤ教からはみ出した異端としてキリスト教を迫害したその総指揮者であり、張本人だったのです。
 そのパウロがダマスコへの道すがらイエスさまの幻とでっくわして180度人生を転回するという回心を体験しました。そしてパウロは異邦人宣教のために神さまから招き寄せられた使徒であると確信しています。そのためにかつて属していたユダヤ支配層から裏切り者として命を狙われ、一方ローマ帝国からは帝国への反逆者イエスを宣伝する煽動者として追求される人生をひたすらつっぱっしっていくのです。ついに捕らえられ、裁判に掛けられ、少なくとも有罪ではないとされたにもかかわらず、自らローマでの裁判を乞い願って訴え、ローマへと護送される。その護送は、海の航路(海路)であったのです。
 聖書の後ろの地図の9「パウロのローマへの旅」を開いてみてください。旅といっても囚人としての護送の船路なのです。有罪ではないとされたパウロが秘かに志したローマ宣教への旅は、「使徒言行録」の最終二七、二八章の舞台ですが、これは古代海洋文学の傑作とも言われています。ただし、傑作というものは、突然偶発的に現れるものではなく、さまざまな要因が重なりあって迫り上がってくるのです。この航海記の背景には、ホメロスの大叙事詩『オデッセア』が大きな影響を与えていると言われています。その分析は研究者の皆さんにお任せしましょう。もう一つの影響は、言うまでもなく旧約聖書であります。創世記の第1章の「神の霊が水の面を動いていた」から始まっています。続いてノアの洪水。そしてヨナと巨大な魚の物語、海は常に世界を結んでいるのです。
 パウロを載せた船は、カイザリア、シドンを経てミラ港に着いて、6節「イタリアに行くアレクサンドリアの船を見つけて、わたしたちをそれに乗り込ませた。」 とあります。ミラは、アフリカのアレクサンドリアからまっすぐ北に位置しています。アレキサンドリアは、エジプトが誇る文化、学芸、貿易のセンターであったのです。すぐ前の2節には、「テサルニケ出身のマケドニア人アリスタルコモ一緒であった。」 とあります。この男性はパウロとローマに着くまで、その後もパウロのお世話をしています。どうやら囚人として行動を共にしている。このような忠実な人物が側にいたという事実から私どもには、パウロの人格が逆写しに見えてくるのです。命がけの宣教は、同行者たちのとの深い信仰による結び付きがあることが分かるのです。
 9節以下を読み進めていると、断食日が過ぎて航行には適さない冬が訪れてきたのです。そこでクレタのフェニックス港で冬を過ごすことになります。
 ようやっとテキストの13節に入りました。小見出しは、「暴風に襲われる」です。去年でしたか、タリアの豪華観光客船が地中海で海難事故に遭い、船長が真っ先に逃げたという衝撃的なニュースになったのを覚えているでしょうか。タイタニック号の最後とはあまりにも違っていました。今回の珍島沖のセオル号沈没事故でも先に脱出した船長が逮捕されました。危機管理の不徹底、政府の対応の鈍さが問題になっています。海難事故を危機一髪から生還させられるカ否かは、船長らの判断がいかに大きいかを教えられています。
 その暴風が襲ってきたのです。14節、「しかし、間もなく『エウラキロン』と呼ばれる暴風がクレタ島の方から吹き降ろして来た。」 15節、「船はそれに巻き込まれ、風に逆らって進むことができなかったので、わたしたちは流されるにまかせた。」 
 私は、1969年の春に、神戸港からソビエト船で東南アジア旅行をしたことがあります。まだベトナム戦争が終わっていませんでした。沖縄で税関手続きを終えてから台湾付近を通り抜けるまで時化て大荒れになった海の中を翻弄された時の船酔いを思い出します。
頭痛で罅割れしそうな頭を抱えたまま、ごろごろ転げ回っていました。逃げる所がなかったのです。もう二度と船旅はすまいと誓いながら転げまわっていました。船体が上に下に縦揺れに揺れて、その度に海とも空とも分からない水の中になかにもんどり帰るという思い出したくない光景でした。が、そうして無事に台湾を通過して、ベトナムの先端のマウイ岬を回って、カンボジアまで辿り着けたのでした。あの時のことを今思うと、神さまに守られて生還できたのだと思うのです。
 16節、「カウダという小島の陰に来たので、やっとのことで小舟をしっかりと引き寄せることができた。」 当時の大型船はいざというときのためのボートを引き連れて航海しました。甲板に乗せるのではなく、海上に浮かべたまま引き連れていたのです。暴風の度にこのボートが荒れ狂ったのです。
 17節、「小舟を引き上げてから、船体には綱を巻きつけ、シルティスの浅瀬に乗り上げるのを恐れて海錨を降ろし、流されるにまかせた。」 さて、今日の題名は「海錨」なのですが、じつは文語体聖書にも、共同訳にも海錨は登場しないのです。文語訳も共同訳も「帆を下ろして」とだけ書かれています。ところが、今回の新共同訳では、「海錨」と訳されています。カトリックのフランシスコ会訳でも「錨」となっているのです。教会生活が長い信徒でも、「えっ、海錨なんてあったかな」と言うほどです。その通り、今回初めての登場なのです。原文の解釈からどうやら錨らしいと推測されるのですが、結局正確には分からない。船の道具、船具であることは分かっていたのです。では、そもそも海錨とは何か。調べたら詳しく書いてありましたが、ここは船具の研究ではないので、錨の一つというだけに止めておきます。船員たちが流されまいとして必死になっている様子が目に浮かびます。危機にあって真っ先にボートを引き上げ、そして帆を下ろしたのでしょう。この海難事故を記した文献には六百名が乗船していたという記録があります。19節、「翌日には人々は積み荷を海に捨て始め」、 20節、「幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる希望は全く消えうせようとしていた。」、21節、「そのとき、パウロは彼らの中に立って言った。」 22節、「元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです」。 こんな台詞を危機の中で断言できるものは滅多にはいないでしょう。おそらく誰もいない。にも拘わらず、なぜパウロは断言できたのか。パウロは昨夜天使を見て、言葉を与えられたのです。使徒言行録には、パウロがしばしば幻を見る場面が登場します。幻は主からら与えられた預言なのです。だからこそ確信して断言するのです。癌で苦しんでいても祈りを通して回復を確信し、その通り生還しうる例は、私どもがしばしば体験している通りなのです。奇蹟は起こる、というよりは奇蹟は与えられるのです。
 24節、天使は言った。{パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は一緒に航海している総ての者を、あなたに任せてくださった}。 船員も兵士たちも囚人も、髪の毛一本もなくなることはなく、無事マルタ島に上陸できたのです。パウロはすぐれた言葉の使徒、福音の使徒として、暴風の難破から全員を脱出させることに成功したのです。言葉の人は行動の人でもあったのです。
 この死に直面した危機からの脱出、生還のドラマを、魂の危機からの魂の生還への物語として捕らえる方法もありますが、肝心なのは、私ども一人一人の救いのドラマとして捉え直すことであります。
 海錨とは、じつは危機を乗り越える時の必需品のことです。それは、何を捨てるか。捨てて捨てて、与えられるものなのです。海は世界を結んでくれますが、その海を渡って行く時、もっとも信頼すべきもの、支えてくれるもの、それは、神に総てを委ねるという純潔の信仰なのです。財産でもなく、地位でもなく、業績でもない。捨てて捨てて引き算の果てに見えて来るもの、おそらく、そこに待ってものが、永遠を生きる幻、これが海錨なのです。祈りましょう。

説教一覧へ