天に上げられる
使徒言行録 1章6〜11節
 満開の木香薔薇、この礼拝堂の窓から見下ろすのがもっとも感動的です。バルコニーに這い上がっているびっしり詰まった黄色い花の固まりがまるでカスタード・プリンが泡だって歌っているようです。朝日新聞に取材を勧めましたが、ちょっと気のない返事でした。まあ、それでいいでしょう。
 さて、牧師館では、農業を愛する「愛農」に入って、食品の購入をしています。が、今月で理事会が休会してしまいました。パンフによれば、「無農薬への関心が高まって、市場には、競争会社が乱立しております。グループ購入が基本であった配送は個別配送となり、人とのつながりが著しく少なくなった状況では理事会の活動は限られてきます。今までの理事会は生産者との交流に活動を絞ってきました。/略/今はネット社会です。欲しいものは必要な時にすぐ手に入る時代です。しかし、大切なものは「人と人とのつながり」です。消費者同志で、また生産者、センター主導であっても会の活動に参加し、力を貸してください。」 とあります。
 この一文は、現代社会の自己矛盾をきっちり突いています。
 新聞を取らない、手紙、葉書を自筆で出さない、読書しない人々が急増しています。携帯やネットで情報は手に入りますが、自分で読まない、書かない限り思想や信条は成熟しないのです。聞き、話すことが言葉の本質ですが、考えて表現して思想や感情を纏めることは、読んで書くことを通してしか熟さないのです。説教ですら、最後には文字で纏めなければ正確な伝達には到着できません。
 聖書がなぜ文字で残されたのかを考えてみることは、とても大切なことです。しかもローマ支配下の世界の状況の中で、当時の共通語とも言えるコイネー・ギリシア語といわれていた分かり易い共通語としてのギリシア語で書かれたのです。イエスさまも弟子たちも現地のアラム語であったにも拘わらずです。ヘブライ語で書かれた旧約聖書さえギリシア語への「七十人訳聖書、セプトウアギンタ」という形で残されたのです。同時にイエスさまに関する伝承も重んじられてきたのです。ですから、言葉は、話す、聞く、読む、書くという四分野の綜合科目なのです。ある意味で、もっとも重要な「書くこと」が、もっとも苦手な分野でもあるのです。言葉とは、神と人間を結ぶ生きものなのです。
 さて、今日のテキストは、使徒言行録の1章です。先週は、「見ないのに信じる」という題名でトマスについて学びました。今日は三節から振り返ってみましょう。「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」
 4節、「そして、彼らと食事を共にしていたとき、/略/「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。」 これは旧約のヨエル、イザヤ書、および新約のルカによる福音書よって語られてきた約束です。すなわち、聖霊降臨、「御霊が下ること」です。
 それを聞いた弟子たちは、ここまで来て、いまだに、イエスさまの真意が理解できず、6節、「『主よ、イスラエルのために国を立て直してくださるのは、この時ですか』と尋ねた」とあります。まあ、無理もない。漁師だった何人かの弟子は、肉体労働に明け暮れていて、ユダヤの歴史について正確な宗教的把握はできていませんでした。ローマ支配下の圧政の中で、武力解放戦線を組んだグループの蜂起もあったのです。いよいよイエスさま中心の武力蜂起の時が来たのかもと、愛国の念に心逸る思いに駆られたのかも知れません。戦後米軍に支配されていた頃の鬱屈していた祖父や父の思いを想起するのです。弟子たちは、武力蜂起とまでは言わないにしても、かつて国家が再興される時には、それぞれ権威ある人の座に着くのだとわくわくしながら待ち望んだ時もあったのです。
 が、こういう時、イエスさまは手厳しい言葉を発します。
 7節、「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。」 と。神の領域に口を挟むことを厳しく拒否なさっているのです。神の決断に人間の入り込む余地はないのです。ここではっきりしたことは、地上での暴力革命をきっぱり拒否しているイエスさまがいらっしゃるという事実です。イエスさまが目指す「神の国」は、平和の理念に立った愛と同労者の共同体なのです。
 その上でイエスさまは今後の展望を指し示してくださったのです。8節、「あなたがたの上に聖霊が下ると、あなたがたは力を受ける。そして、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」 弟子たちが心逸った武力ではない力、それはイエスさまがキリスト(救世主)であると証言する力、すなわちひたすらに宣教する力が与えられることだったのです。わたしどもの罪を贖い、新しく変革されること、つまり神との和解による出発の道への誘いだったのです。この使徒言行録は、こういう訳で聖霊による言行録とも言われてきたのです。その言行録が進んだ舞台が、「エルサレム」(1から7章まで)であり、「ユダヤとサマリア全土」(8章一節〜11章18節)、「地の果てまで」が残りの28章30節までなのです。
 こうしてかれらは、イエス・キリストの証人という身分を与えられて出発することになった。その時、イエスさまは天に上げられたのです。9節、10節まで、天という単語は五回も登場します。では、天とはどこでしょうか。
 天とは、地上を越えた神さまの座席のある場所です。つまりイエス・キリストを受け入れた信徒の、将来の永遠の住まいのことです。そこは神さまが現臨されている場所です。そこを東アジアでは、「天」という漢字で表現してきました。地上から垂直線を上へ上へと上(のぼ)って辿り着いた所ということになります。聖書の「天に上げられる」特徴は、9節、「雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」とあります。これはマタイによる福音書17章の「イエスの姿が変わる」場面と良く似ています。すなわち、2節、「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」と。二千年前の古代人が描き出したイエスさまの変貌のイメージです。これしか、いと高き天のイメージを描けないからですが、科学的には全くお話にならない。つまり私どもの地上的現実から超越する次元、超俗的次元への変換、変貌を表現するにはどうしたらいいのでしょうか。異次元、異空間への入り口、ドアこそ「雲」と言うしかないのでしょう。使徒信条の「天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり」の場面です。私どもは使徒信条を唱える時、どういう実感を持つのでしょうか。このイメージを思い浮かべて唱えていますか。それとも、、、、。これは人にとって違うでしょう。私は、東神大の組織神学の授業で率直に教授に質問したところ、この文言で実感を抱けるのだとの答えでした。最近の私もその教授の答えに近い。非科学的イメージのほうが聖なる空間の表現にふさわしく感じられるのです。みなさんはいかがですか。
 最初の話に戻りましょう。ネット社会に入って、欲しいものは何でも手に入る時代になりましたが、そのために必要な経済力はネットでは入手できません。いうまでもなく人と人をつないでいたものが、どんどん失われていく時代、逆に挨拶や愛や連帯や共感が失われ、孤立と孤独に苦しむ人々、無縁の人が増加しています。まじめな問題や問いを語り合うことを避けて、ますます追い詰められていく時代の中で、宗教はもう出番の筈ですが、イエスさまの証人として派遣されていることを忘れてしまったぼんやりキリスト教徒、怠け者キリスト教徒も増大しています。人と人をつなげるものの真ん中にイエスさまが立っていらっしゃることを思い起こそうではありませんか。神さまはこの中間時を突き破って再び来臨されるのです。いつ、どんなふうに、と問うのは止めましょう。聖書の確かな言葉にきちんと耳を傾けましょう。
 テキストの11節です。
 「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでにになる。」
 神さまは地上で天上で宇宙でご臨在なさっているのです。イエスさまと共にいる私どもは永遠をも生きる喜びに包まれています。地上の生の終わる日まで、主の証人として力を尽くして宣教に励んで行きましょう。
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