見ないのに信じる
ヨハネによる福音書20章 11節?29節
 教会堂前のモッコウバラが今日に合わせたように満開です。やわらかな甘い香り、もっとも目に入りやすい黄色の花々がいっせいにみなさんを出迎えてくれました。
 永野昌三という私の友人は、「復活のイエス」という詩の最終3行を次のように締め括っています。

  受難の時を経て 復活したイエスよ
  目覚めたガリラヤの湖は
  新しい緑に満ちている

 それでは、あらためて復活節(イースター)おめでとうございます。
 今日のテキストは、ヨハネによる福音書の20章、事実上の最終の章です。そもそもヨハネ福音書は、あの有名な「初めに言があった」に始まっています。この「言」こそ神であった、と述べています。言葉は、二千年前のローマ帝国に於いても、音と意味で組み合わされ語られるものであり、他者に向けて伝えられる、すなわち聞くものであったのです。話す、聞く、が、言葉の本来の歴史であり、じつは、書く、が、一番遅く登場してきたのです。日本の『古事記』も暗誦され伝承されて来た結果なのです。『万葉集』も本来歌であり、歌われてきたのです。旧約の詩編も歌われてきました。
 音と意味で出来ている言葉は、その本質が神であると言いますのは、ほんとうのこと、真実、真理は、そのまま神である言葉として現れのだと言うのです。ヨハネ福音書が文学者たちを引きつけてきた理由はここにあります。
 ただし、聖書は、宇宙の原初から神は言葉として存在している、と主張しているのです、その神が世界を贖うイエス・キリストなのだ、と。ここが文学や一般哲学、思想とキリスト教の分かれ道なのです。
 ヨハネ福音書は、このイエスさまの福音伝道の生涯を語っている物語です。その事実上の最終20章の小見出しだしは、ずばり「復活する」です。最初にマグダラのマリアに、次に弟子たちに、最後に弟子たちと共にいたトマスに、復活したイエスさまが出現なさったのです。ということはヨハネ福音書の最後の登場人物がトマスであったということです。
 先週は、20章の1〜10節まで空っぽの墓を見て、イエスの復活を信じた、という部分を学びました。
 その後の展開が今日の場面です。
 12節、天使たちに向かって、マリアは答えています。「私の主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」 15節、「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」 マリアは、園丁だと思って言った。 「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」 「あのかたのご遺体ではなく、あの方を引き取ります」というマリアの台詞は、ここだけでもいかにマリアがイエスさまを慕っていたか、その死を悲しんでいたのか、手に取るように分かります。「だれを捜しているのか」と復活したイエスさまに問われても、イエスさまだとは「分からなかった」のです。いかに動転していたか、あの方を引き取ろうとしていたマリアは、まさかイエスさまが復活されたとは到底思えなかったのです。それどころか、咄嗟に、墓場を管理する園丁だと思ったのです。動転していた現場にいたら、おそらく私どももマリアと同じ反応をしていただろうと思います。
 そしてイエスさまは、どうお答えになったか。見抜けなかったマリアを憐れんだのか否か、それこそ分かりませんが、ただ一言、「マリア」と彼女の名前を言ったのです。忘れもしないあの慕わしい懐かしいお方の全人格が込められた発声、ただ一言「マリア」。 
 16節、「イエスが『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、『ラボニ』と言った。『先生』という意味である。
」「ラボニ」の発音にもマリアの熱くて熱い感情が籠もっていたのです。イエスさまを慕う思い、尊敬、再会の驚き、あらゆる思いがこの「ラボニ」に詰まっているのです。かつての日々がいちどきに甦ってきたのです。
 するとイエスさまは、こうお答えになったのです。17節、「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。」 この答えをどう受け止めますか。
 イエスさまはどうしてこうも冷たいのでしょうか。そうではありません。復活の主と出会って、主と共に人生の道を新たに歩み出すこと。つまり自立することを命じているのです。復活の主と出会った弟子としての新たな出発を促してくれたのです。
 続く19〜23節まで「イエス、弟子たちに現れる」は、弟子たちの只中に現れた復活のイエスさまを描いています。「あなたがたに平和があるように」と祝福されたイエスさまは、同時に、21節、「わたしもあなたがたを遣わす」 世に出て行くようにと命じたのです。復活節は、単純に大喜びしていればいい、のではありません。新しい出発なのです。
 さて、ヨハネ福音書の最後に登場したのがトマスです。24節、「十二人の一人でディドモのトマスと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。」 
 何故かは聖書には書かれていません。イエスさまの無残な最後と、葬られた事実を聞いて、官憲の残党狩りを恐れて、他の弟子たちとも行動を共にせず、我が身を隠して、絶望の底でやけ酒を煽っていたのかもしれません。イエスとは何者であったのか、弟子の我々にはどういう意味があったのか、何もかも分からなくなった。もうどうでもいい、とやけっぱちになっていたときに、イエスさまが起き上がった、甦られて、復活なさった、という話が他の弟子たちから聞こえていたのですが、どうしても本気になれなかった。なれなかったが、他の弟子たちがあまりにも無邪気に喜んでいるので、気が進まないままにかれらと行動を共にし始めたのである。かれらは言った25節、「わたしたちは主を見た」と。「主を見た」という事実報告のような表現に違和感を覚えながらトマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 と。事実の確認なら徹底して確認しなければ駄目だ。自分の指と手を使って肉体的に確認しなければ、というこの科学的実証精神は、二一世紀の現代人と同じなのであります。おそらくこの台詞はトマスの本心でもありますが、彼は他の弟子たちに単純には共鳴できなかった。信じるとはもっと徹底的な命掛けの行為のはずだと言いたかったのではないでしょうか。
 26節、「さて八日後、/略/戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。トマスは呆気に捕られた。他の弟子たちの言う通りだったのだ。イエスさまだ、ほんとうにイエスさまだ、と思ったとき突然恐怖に襲われた。緊張の余り体中がこわばった。とても平和どころではなかった。しかもイエスさまはトマスにこう言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」 イエスさまは俺の考えていたことを全部ご存知だ。何もかもお見透かしだ。ああ、なんていうことだろう、イエスさまは、主は、何もかも、絶望していた俺を丸ごとご存知だった、主は。」 さらに続けて主は言われた。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 28節、「トマスは答えて、『わたしの主、わたしの神よ』と言った。これは旧約詩編の35編24節から来ています。トマスは旧約もよく読んでいたのです。トマスは懐疑主義者、疑い深い人物だとよく言われますが、そうではありません。他の弟子たちよりももっと緻密に、さらに論理的にものを考える、真面目人間だったのです。聖書は知的論理的に真理を追究するのを目指してはいません。ただし人間の力を過信するなと厳しく忠告しているのです。トマスは、そのことをイエスさまから徹底的に教えられたのです。純真な心で聞いた古都を受け入れることは神さまからのすばらしいプレゼントなのだ。信仰は上から与えられた恵みなのだと分かったのでした。トマスの「わたしの主、わたしの神」は、トマス個人の信仰告白ではありません。二千年前のヨハネ教団という共同体の信仰告白なのです。この福音書の最後の登場人物であり、最高の信仰告白をした弟子として記憶される名誉を与えられたのであります。
 このトマスがその後イラン、インド方面の宣教を担ったと言われています。現在インド南部のキリスト教の礼拝でシリア語が使用されている事実は、この伝承と密接な関係があるのでしょう。私どもは、西洋、アメリカ経由のキリスト教ばかりではない。北方系のオーソドックス、南周りのキリスト教の存在をも視野に入れて行きましょう。
 復活の主との出会いこそキリスト教の精髄であります。そして、伝道こそ弟子としての最大の義務です。土師村に蒔かれた種がほんのわずか芽を出しています。根を張り、幹を広げ、花を付け、実を結ばせる、すなわち神の家族を増やすために、本気で立ち上がる最初の日が復活節の本日なのです。伝道は、教会員全員の仕事なのです。急げ、ハレルヤ。


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