見つめていた
マルコによる福音書15章42〜47
 受難節もいよいよクライマックスになっています。クライマックス?。頂点、それは人生の極地といえば死ぬの「死」でありましょう。
 テキストは、読んでいただいたマルコによる福音書15章42〜47節、小見出しは、「墓に葬られる」です。言うまでもなくイエスさまの埋葬場面です。今日の書き出しは、96頁下段の15章、1節、「既に夕方になった」であります。
 さて、先週火曜日4月1日は、暖かな春日あんまりも穏やかで暖かな午後の昼下がり、夕方の入り口です。テキストによれば、「既に夕方になった」であります。
 そんな劇的な時間帯に妻と私が何をしたかと言えば、突然大仙公園に行きたくなりました。バスを降りると、日本庭園近くに覚えのあるピンクの枝垂れ桜が広がっています。さらに奧へ進むと、夕暮れのいちめんの櫻の空の下で、若者たちが静かにゆったりと休らっていました。平和な大仙公園の夕暮れ。
 その時、私は、突然、坂口安吾の小説「櫻の森の満開の下」を想起しました。櫻の崖下で突然、鬼に襲われた山賊の男が死にもの狂いの戦いの果て、勝ったと思いきや自分の目の前に死んでいたのは、男が愛する女であった。女は櫻の花びらになって消えて行った。絶望して泣いている男も体が解体されて櫻の木の下に溶け去っていくという恐怖小説です。満開の櫻は人を狂気に陥れる。満開の花の下には死体が埋もれているという荒筋です。櫻に託された人間の絶対孤独がテーマなのです。それは、他者とのコミニケーションを健やかに築くことのできない人間が辿った悲劇です。それを山桜が引き起こす他者不信の恐怖世界として活写しているのです。
 ゴルゴダのイエスさまの十字架の死と大仙公園の幻想怪奇な絶対孤独の世界。
 そんな二つの世界の死について考えながら帰宅しました。
 テキストの1節の後半を追いかけましょう。「その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので」す。43節、「アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た」。 
 イエスさまの最期の晩餐から逮捕、裁判、処刑、埋葬まではどの福音書も描いています。ただし、細かなところには、それぞれ相違点が見られますが、肝心要の核心は同じです。マルコによる福音書によれば、安息日の前日という設定です。安息日に入れば何もしてはならないからです。これが裁判を急いだ理由でもあります。現在の裁判とは異なっていて、かなり強引な裁決がなされますが、それもありうることだったと思います。このまま放っておけば、イエスさまのご遺体は腐ってしまうかも知れない。さらに最悪の場合、野犬や狼に狙われるかも知れない。ヨセフはそれを恐れたのです。一刻も猶予ならない。じつはヨセフは秘かにイエスさまの弟子になっていたのです。このことを隠してきたのです。いまや躊躇できない。弟子としての行動を即刻始めなければならない。決然と立ち上がりました。「私は、イエスさまの弟子です」と。
 ペテロたち十一弟子はとっくに逃げ去ってしまっていた。だから、「勇気を出して」です。続いて、「この人も神の国を待ち望んでいたのである」とあります。
 マルコによる福音書は、いちばん短い福音書として知られています。簡潔明瞭なのです。第1章14節、小見出し「ガリラヤで伝道を始める(61頁)をごらんください。「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、」、 15節、「『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」と果敢な伝道生活を開始したのです。この「神の国」をヨセフは待ち望んでいたのです。
 15章の、テキストに戻ります。44節、「ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて、既に死んだかどうかを尋ねた。」 そしてイエスさまが完全に死んだのを確認してから、ヨセフの願いを聞き入れたのです。
 翻って私どもの多くは、すでに両親をあるいは肉親を見送っています。天国での再会を信じているのです。ほんとうに死後の再会を心から待ち望んでいますか。そこがもし曖昧ならキリスト者としてイースターを迎える資格はありません。まったき死があって、初めて復活信仰が成立する。この確信にしっかり立って喜んで生きていたいものです。
 十字架刑は、ローマ帝国への反逆、反乱などの重罪を犯した犯罪者に対する極刑死としての十字架刑であり、死ぬまでできるだけ長く時間を掛けて、肉体的に精神的にもっとも苦痛を強いる刑死であり、死んでからも晒し者にされる屈辱的な刑死なのです。
 33節以下の「イエスの死」に戻りましょう。「昼の12時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」。 これは砂漠地帯に見られる砂嵐の襲来です。34節「3時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』 これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」。 37節、「しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた」。 38節、「すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」
 ここには子なるイエスさまが父なる神に向かって放った魂を絞るような叫びが挙げられています。絶望の極みでなおも父へと叫び声を挙げているのです。これは答えを聞こうとする全力投球なのです。イエスさまは最期に大声で何を叫んだのかは永遠の謎ですが、「父よ、かれらを赦したまえ」ではなかったかと言われています。
 この壮大な刑死のドラマを見ていた百人隊長が、39節、「『本当に、この人は神の子だった』と言った」は、有名な個所です。百人隊長がイエスさまの贖罪死を理解していたかどうかは分かりません。が、理解していなかったとも断定するのも難しい。百人隊長が何を以て、「本当に神の子であった」と言ったのか真意は分からないのですが、信仰告白をしたという事実をそのまま伝承してきたその歴史の重たさをそのまま受け入れるべきでしょう。告白の伝承事実を後からいかに詳細に分析しても。信仰の内実は解明されないでしょう。分析と論理的追求だけの学問は、明らかに限界を持っている。人間の側の知性への過剰な信頼が問題なのです。信頼は本来聖霊のお助けなしには成立しないのです。人間至上主義の世紀はとうに破産しているのです。
核兵器の使用廃止一つだけでも実行できない現実をどうしたら突破できるかを宗教者こそ立ち上がって発言しなければならない。仏教も神道もキリスト教も、人間の霊的存在について猛省すべき時が来ています。その基本は、人間の限界を知ることです。「我、足るを知る」です。
 45節、「遺体を下げ渡した」とあります。これにはどんな意味があるのでしょうか。硬直した遺体は、十分に気を付けねば、どさっと大地に叩き付けられるように落下してしまうかも知れません。
 46節、ですから「ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた」のです。
 亜麻布はエジプト産の布がもっとも良質と言われていました。ちなみに38節の「神殿の垂れ幕」は、亜麻布であった。主に富裕階層や貴族が使用したそうです。その亜麻布をイエスさまのためにヨセフは準備したのです。
 イエスさまの遺体をていねいに十字架から「降ろしてその布で巻き」、 すなわち亜麻布で捲いたのです。もちろんこの墓は新しい。こうすることがヨセフの精一杯の葬りの仕方であったのです。
 そして、その墓の場所とイエスさまの遺体の扱いを47節、「マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、」 一心に見つめていたのです。後日、イエスさまに香料を塗るために確認をしていたのです。死んだイエスさまのために何ができるのかを二人は考えながら、泣くのも忘れていたのです。これで終わりなのか、人生の終わりなのかと思い詰めながら。
 そんなはずがない、これまでイエスさまと共に懸命に歩いて来たではないか。たくさん生きようと思った。生きるのが嬉しかった。イエスさまと離れるなんて、そんなことできない。でも、でも、香料も塗らなければ。
 この時イエスさま自身が放った復活の預言は女性たちの脳裏に浮上したでしょうか。絶望の中では考える余裕もなかったのでしょうか。
 しかし、すべての福音書はこの後、驚くべき物語を語り始める。それはどういうことなのかを次週新たに発見できるように導いて下さい、と祈りましょう。

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