あなたが叫べば
イザヤ書58章6〜11節
 先週に続いて、アジアン映画祭の日本映画についてお話します。
 アジアン映画祭のしんがりの一つの日本映画の題名は、平仮名の「つぐない」でした。
 映画祭の特別招待作品。
 つぐないは常識的に言えば、埋め合わせという意味です。時は現在の新宿、高層ビル街の真下の飲み屋街・ゴールデン街。男の憂さの捨て所、遊び場。そこの一軒であるバー、店の名前「罪ほろぼし」。 男心をちょっとくすぐる軽いお名前です。そこに出入りしてくる
男女らの現在、過去の入り組んだ筋書きは省略します。批評家らしき男が出て来て、酔っぱらって直木賞作家の野坂昭如の文章からでたらめに引用して、「『酒と女とインチキと悪、徳の街』と言ってるが、もうそんな街ではなくなっちゃったよね」とくだを捲いたりします。
 この映画の協賛者の一つにゴールデン街の名前が出て来るのがユーモアです。映画や小説は常識的には在りそうもないことをあたかもほんとうであるかのように想像力で描き出して、人間のドラマとして仕立てあげるのです。
 その中のある若い女は、どうやらなにか凶悪犯罪を犯したらしく、五年間の刑務所でのお務めを終えて、この街にやってきます。訪れた所が「罪ほろぼし」。 この女と愛し合った男はこの店のママの紐になって暮らしているからです。
 この男にはママ以前にも別の女と暮らしていた過去があります。この男に捨てられたある若い女はこの男を憎み怨んでナイフを握って裏切ったこの男を殺そうとしましたが、誤って女の方を刺し殺してしまったのです。若い女は刑務所にいる間、誤って殺してしまった女に詫びつつ赦しを求めながら過ごして来たでしょう。法律的には償いは終わったにしても、若い女はこの男に対しては赦すことができない。ついには女の墓を掘り起こして遺骨を抱き、ナイフ代わりの親指を突き出して、男に迫り、その遺骨を男の手に抱かせると新宿を去って行きます。
 そして、翌朝、何気ないゴールデン街の朝。
 映画は、ここで終わり。
 さて、映画は極端な筋書きですが、テーマは重くのしかかってきます。「あなたも罪人だ。償いなんて結局できない。あなたは自分は罪など犯したことがない。冗談じゃあない。」と言う。「ほんとうに人間の道をはずしたことはない、と言い切れますか」と詰め寄ってくるのです。「なんでも言い訳できるあなたは正常ですか」と、映画は語り掛けてくるのです。
 上映が終わった真夜中、観客たちは、何も語らず、寒いひっそりかんの九条の街に消えて行きました。
 イザヤ書58章1節、「喉をからして叫べ、黙すな。」 長年の夢を果たすためにエルサレムに帰還した人々。かれらはサマリアの属国にまでなってしまった旧ユダ王国を再建するために、まずは神殿から建て直そうとして、さらに断食に励んでいたのです。しかし、その人々に対して、神は憤りの声を上げたのです。「おまえたちは罪人だ」と。 
 4節「見よ/お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし/神に逆らって、こぶしを振るう。/お前たちが今しているような断食によっては/お前たちの声が天で聞かれることはない。」 と。断食は旧約でも新約でも悪や罪を取り払う厳粛な儀式ですが、断食している人々は、真面目に儀式を執り行っていれば、神は嘉してくださると確信する。しかし、主は言われる。「葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと/それを、お前は断食と呼び/主に喜ばれる日と呼ぶのか。」と。形を整えれば贖罪されるというのは妄想だ。そもそも儀式は、何のためにあるのかと神は詰め寄るのです。
 ここから主の言葉は熾烈を極める。何故か。半世紀以上に及ぶバビロン捕囚を耐え抜いたのは何故だ。主自らのお招きによって祖国イスラエルに帰還したのは、神に感謝して祖国を再建するはずだった。その基礎再建工事に入ったばかりなのに形式主義に陥っているとはなんという履き違えだ。   
 6節、「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。/悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。」 それらは、バビロンに捕囚され、屈辱を舐めさせられてきた彼らを解放してくれた神がなさってくださった歴史的事実なのです。それを行えと言っているのです。捕囚状態から解き放って下さった主への感謝を忘れて、またしても支配者たちによる搾取と抑圧が始まっている。形式主義のにせの支配が再び繰り返されている。それを神は赦さない。6節は、言わば政治権力による社会的抑圧からの解放を命令しているのです。同胞に対する、神の民イスラエルに真っ向から逆らう支配層の在り方に対する全面的な否定の声なのです。目覚めよ、悔いよ、イスラエルという呼び掛けです。支配層への責任的倫理を呼び覚ましています。
 これだけならヒューマニズムもここまでは主張しますが、私どもの神は、さらに七節を下さいました。すなわち、「さらに、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しき人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。」 とあります。これはどういうことでしょうか。「飢えた人にあなたのパンを裂き与え」です。これしかない私の今日のパンを裂いて与えよと言うのです。私はどうなる。さらに向こうから飢えた一家がやって来た。もう裂いて与えるパンもない。神は、私に飢えて死ねというのか。一家でようやっと住んでいるこの家に貧しい人を招き入れたらどうなるのだろう。着るものだって余分はない。自滅へと追い詰められるこの命令、この実行不能な苛酷な命令、これはどういうことなのだろう。
 そうです。これが神の苛酷な主張なのです。余ったら、余裕があれば、他者に親切に優しくすることとは根本的に違うのです。これをなんと言ったらいいのでしょう。これは愛に根ざした倫理革命なのです。この苛酷な倫理こそ神が求めるものです。ここがヒューマニズムと違う。聖霊の力のお助けなしにはこれらのことは実行できないのです。
 この7節の倫理革命は、三浦綾子の「塩狩峠」の主人公が身を投げ出して汽車の下敷きとなって乗客を救った実話を想起させてくれます。奇蹟は起こるのです。人間の側の価値観を超えて実現する愛の倫理的実践を信じようではありませんか。これこそ神と人との正しい関係であり、人間への普遍的救済の内実なのです。
 8節が、その愛による革命の実現を言い切っています。「そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で/あなたのきずは速やかにいやされる、/あなたの正義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る。」 と。
 再びこの映画「つぐない」の世界に戻りましょう。若い女は、罪は自力ではけして償えない、埋め合わせができないという絶望のまま街を去って行きます。さらに自分を捨てた男への憎しみという罪に捕囚されている罪人でもあるのです。そして肝心の男は、遺骨を両手に持たされたまま、新たな罪意識に苦しめられていくのです。
 翻って私どもは、全く無罪であるのでしょうか。私どもはほんとうに救われていると断言できるのでしょうか。
 今日のテキストは、あれはスクリーンの中の物語ではない。「お前も同罪なのだ」と断言しているのです。法律的な罪は犯してなくても、神と人間とのまともな関係から大きくはずれてしまっていると断言しているのです。親、兄弟、友人、世界に対して、私は立派に生きて来た、生きていると言い切れるでしょうか。
 今こそ私どもは魂と心と身体を通して、主の前に膝を折って、「主よ」と叫び求めようではありませんか。
 9節、「あなたが呼べば主は答え/あなたが叫べば/「わたしはここにいる」と言われる。」 11節、「主は常にあなたを導き/焼けつく地であなたの渇きをいやし/骨に力を与えてくださる。/あなたは潤された園、水の枯れない泉となる。」 と。「骨に力を与えてくださる」という表現は、三十代を過ぎると、じんじんと迫って来る表現です。
 古代の人間にも、長寿の現代で同じです。
 私どもがほんとうに慰められる時とは、「わたしはここにいる」という主の声が聞こえて来た時です。「骨に力を与えてくださる」
 主とともに歩むのは無上の喜びです。ただし私どもは日毎に恐れつつ主を呼び求め、私どもの罪を告白しなければなりません。
 あの映画を創った日本人はきっとスクリーンのすぐ裏側で叫んでいるのです。
 「主よ、あなたはどこにおられるのですか」と。イザヤ書は、どこにいてもいつの時代でも私どもに主の御心を語ってくれる貴重な預言書なのです。

説教一覧へ