糧にならぬもの
イザヤ書55章1〜5節
 3月8日(土曜日)から一週間、大阪の幾つかの映画館を舞台にアジアン映画祭が開催されました。アジア各国からの代表作が競い合う映画祭です。梅田北広場でのレッドーカーペットのオープニングが新聞に載っていました。文化庁や大阪府も後援しているので、いかにも華やかな映画祭ですが、あくまでも商業主義的な売り込みと利益が狙いです。その厳しい現実の条件の中で、監督、スタッフ、キャストが、どこまで人間の美と真実を描き出せるのか、そこに関わる左から右までの思想的、政治的立場の異なるさまざまな立場も抱え込みながらの共同作品が映画制作の現場なのです。
 妻と私が鑑賞した作品は二本の日本映画でした。一つ目は、題名、「燃え上がる仏像人間」、 本年度、文化庁新メディア部門優秀作です。切り抜き人形のアニメーションです。人間を救済する熱情に駆られた仏教僧がその熱意故に仏像に化身しその目的実現の願望が悪魔に逆利用されて、悪魔の虜にされてこの人間界の現実をおぞましい修羅場に巻き込んでしまう、しかもこのおぞましさも現実なのだと主張している。という複雑な筋書きです。生まの俳優が演じたらグロテスクな吐き気を催す地獄図絵になってしまったでしょう。人形浄瑠璃と同じ効果になっていて、人形であるが故に、地獄画に耐えられ、救いとは何かという主題を追うことができるのです。どうしたら祝福されるほんとうの日常へと復活できるのか、そこが見所でした。
 上映が終わったとき、30名余りの観客は、ようやっと息が付けました。衝撃的な映画でした。が、どう考えても大ヒットはむずかしいなと思いました。と同時にこんなに考えさせてくれる映画も少ない。久し振りにまっくらな暗箱に入って、世界や人間の現住所を見つめ直すいい機会だったと感謝しました。
 芸術が身近になった事実は歓迎します。が、あまりにも大衆芸能になり過ぎて、おもしろければそれでいいという娯楽に堕してしまったものが多過ぎます。
 便利過ぎて、気楽で、苦労せずに手に入るものが多すぎて、それでいて、何か物足りなくて不満足。というのが今日この頃ではないでしょうか。とくに若者たちが明るい明日を信じられない。大人も元気がない。こんな時代を生き抜く、奮い立たせてくれるものがない。生き生きとした命の息吹が感じられない、そんな弛んでしまった日常なのです。
 今日の第2イザヤが扱った現実も弛んでしまった日常が対象です。
 バビロン捕囚の半世紀あまりを経て、再びなつかしいイスラエルに帰還出来るようになったのに、必ずしも帰還しようとしない、帰らなくてもいいのではないかと思ってしまう時点まで後退してしまった人々に対して、神はイザヤの口を通して励まし、生きることの根拠とは何か、何をもって未来図を描けるのかを言葉をもって語りかけているのです。
 イザヤ書55章1節。第2イザヤの最後の章です。第1節を御覧ください。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。」
 中近東の砂漠地帯まで行かなくても、雨期、乾期のある東南アジアのモンスーン地帯でもいい。飲んで大丈夫な水を手に入れるのが難しい所はいっぱいあるのです。年に二、三度土師教会にお見えになる埼玉YMCAの繻エ総主事が率いる埼玉YMCAは、毎年三月に実施しているフィリッピン・ワークキャンプが良く知られています。
 群島国家のフィリッピンは、あり余るほどの海に囲まれていますし、台風の発生地でもあります。が、水道施設が整っていません。バングラヂッシュも同様です。人間にとって水がどんなに決定的な存在であるかはいまさら言うまでもないでしょう。三大文明の発祥地はみな川の辺なのです。水はすなわち命の象徴なのです。埼玉YMCAワークキャンプは、毎年フィリピンの田舎に自費で出掛けて行って、村人のために有機バクテリアを利用した井戸を掘ってきました。聖書の中では、井戸がとても大事な役割を担っています。水が命に直結していることを教えてくれるのです。詩編23編は、水を十分に語っています。
 「主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い/魂を生き返らせてくださる」と。
 イザヤ55章1節の後半、「銀を持たないもたない者も来るがよい」。 あれ、銀が金よりも価値が高いのだろうか、と思う人もあるでしょう。日本の江戸時代、通貨としては金よりも銀の方が価値がありました。銀座通りといえば現在でも、東京でもっとも有名な通りです。堺東にもアーケードの銀座通りがあります。金座、銅座通りはないのです。鋳造された銀貨はペルシャ時代に入って初めて登場したのです。ですからこの「銀を持たない者」という表現が出ているのです。ちなみに文語体聖書では、「金」と出ていて、「かね」というルビが振ってあります。
 テキストの1節は続いて、「穀物を求めて、食べよ。/来て、銀を払うことなく穀物を求め/ぶどう酒と乳を得よ。」 と言っています。
 真っ先に水、そして穀物、ぶどう酒、乳を無料で提供する。さあ食せよ、と主は言うのです。こんなに嬉しいことはありません。みんな、ただ、なんて。
 だが、待てよ、これはなんのことなんだろう。食うために生きることでいっぱいなのにただ、なんて。ほんとうだろうか。
 2節、「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い/飢えを満たさぬもののために労するのか。」 と全否定的な声がのし掛かってきたのです。「糧」とは、もともと「かりて」という言葉でした。その意味は旅のための食糧、つまり非常食という意味です。人生みな非常食で暮らしていた、昨日も今日も明日もという保証はなかった。一日、一日が人生だったのです。だからこそ主の再臨を切実に待ち望んでいたのです。「主の祈り」は元来「われらの日用の糧を今日与えたまえ」と祈ったのです。「今日も」の「も」は、なかったのです。
 さて、テキストに戻りましょう。この文脈で考えれることは、「糧にならぬもの」とは、「飢えを満たさぬもの」という意味でしょう。聞いている者は意味のどんでんかえしに驚き、躓くかもしれません。これはいったい何を言っているのだろう、と。
 2節の3行目、「わたしに聞き従えば/良いものを食べることができる。/あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。」 と謎の言葉が聞こえて来るのです。
 聖書に登場してくる「魂」という言葉は奥行きが深い。人間の深い精神活動を表していることは分かるのですが、じつはもっと積極的な意味が込められています。人間は神の息吹を受けて生きる者となったことは創世記を通してはっきりしています。その前提に立って、神に応答する自分の全存在を賭けた表現が「魂」なのです。ならば、神が与えてくださる代金無料の食べ物、すなわち神からの言葉を「あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう」と言うのです。それはどんな食べ物なのか、弛んだ日常の現実になれてしまった魂には、分からない。

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