闇を創造し
イザヤ書45章1〜7節
 三月になりました。が、上空には寒気が留まっているようです。「春は名のみの風の寒さや」という歌がふと唇に上ってきそうです。
 今NHKの朝の連続小説では、「ごちそうさま」が後半部に入っていて、大阪空襲と疎開の部分です。大阪空襲は何日だったのでしょうか。3月13、14日の深夜だったのです。難波、梅田方面は壊滅状態だったそうです。
 そして、母の、め以子と学生になっていた長男は京都に疎開、そこにも赤紙がやってきました。「こういう時代に出っくわしてしまった僕は悔しい」と言って切々と訴えながら別れを告げる長男の場面、激しく込み上げてくるものがありました。
 私の同級生は、殆どが昭和16(1941)年生まれなのです。小学校時代父親が帰って来なかった子が何人もいました。生まれる前から戦争に翻弄されて来た世代なのです。楽しいドラマ「ごちそうさま」が、こんな展開になるとは思っていなかったので、先週くらいから朝のテレビを見るのが辛くなっています。最近のNHK執行部とその背景にいる政権担当者たちの動きを見ていると少々不安な気持ちになってきます。人間はどうしてこんなに愚かなのでしょうか。ロシアのウクライナへの覇権の野望も見過ごせません。ソチが現在パラリンピック開始をしているのを見ていると、オリンピックをも利用する侵略者への怒りを抑え切れません。
 こんな時代の危機の中で、イザヤ書を開いていると、バビロンにまで捕虜として連れ去られて行ったイザヤに託宣された言葉の中に神さまの御心がどこにあるのかがはっきりと見えてきます。
 先週は、バビロンに屈する危うい場面でのユダ王国のもがきを味わわせてもらいました。
 イザヤ書は、大きく分けると三部構成になっている。すなわち第一イザヤ(1〜39章)、つづいて第二イザヤ(40〜55章)、 最後に第三イザヤ(56〜66章)です。が、これら全部を貫いて神さまの託宣であるので、筆者がたとえ三人であったとしても、「イザヤ書」として纏めた編集委員会があり、編集委員会の歴史を見る眼は、積極的に歴史に関わった神さまの眼であるという視点で一致しているのですから、私どもは、一冊の「イザヤ書」としてまるごと受け止めるべきでしょう。
 先週学んだことは、歴史の危機の中でイスラエルを導いた主の御心を体現したのが預言者たちであったという事実であり、私どもの日本の歴史の中においては、預言者がいなかったという大きな違いがあります。
 そして今日は、第二イザヤによる祖国への帰還を語る主の言葉から始まっています。無比の強さを誇ったバビロンが落城して、ペルシャのキュロス王が新しい大帝国を造り上げて、その権勢を誇る場面からです。ここまでそれとなく暗示されてきたペルシャ王キュロスに与えられた使命について、ここで初めて名指しされているのです。少し前まで遡って、第二イザヤの救いの託宣の導入部には、創造者への頌栄、讃美が伴っていることが多い。
 第一イザヤから第二イザヤにどのように歴史が動いて来たのかと言いますと、紀元前五八七年、南王国ユダは、バビロニア帝国によって滅ぼされて、支配者層の多くはバビロニアの首都バビロンとその郊外へと強制移住させられたのです。その状態は、紀元前、538年、新興国家ペルシャのキュロスによって解放されるまで、じつは半世紀に及んだのです。日本の朝鮮植民地36年間でさえ、今なお心からの和解が成立していないことを考えたら、ましてや古代世界の半世紀がどれほど深刻な影響を残したか想像を絶してしています。
 肝心の第二イザヤは、そのバビロン捕囚期の末期から活動を始め、解放が近づいたことを告知して、ユダヤ民族がエルサレムを中心とした地域に一緒に帰還するようにと熱く語ったのであります。
 45章の一節を御覧ください。「主が油を注がれた人キュロスについて/主はこう言われる。」 とあります。こういう称号を他国の、しかも支配者に与えることは異例のことであり、「油注がれた人」という言葉は、ヘブライ語で、「マーシーアハ」と言われます。どこかで聞いたことがありませんか。そうです。新約聖書では、「メシアース」と翻訳された。「メシアース」、 それは救世主メシアです。これがキュロスに与えられた称号であるということは、主がどれほどキュロスに期待していたかを表しています。ここの1節は、主がまず先立って、「わたしは彼の右手を固く取り/国々を彼に従わせ」とあり、キュロスを迎え入れているのです。が、これはかつてアッシリアの王にイスラエルに警告する使命を与えたように、ペルシャのキュロス王は神さまの遣いとして、同時に傀儡として送りこまれたのであります。こうして主は、3節、「暗闇に置かれた宝、隠された富をあなたに与える」のです。創世記以来創造主である神を私どもは知っていますが、「暗闇」を創造する神さまには馴染みがないので、おや、なんお無くぴったり来ないなあと思う人もあるでしょう。が、じつは神は光だけではなく、暗闇の創造者でもあるのです。新約においても「隅の頭石」が主イエスへの称号になるのと同じであります。ですから3節のその続ききが、「あなたは知るようになる/わたしは主、あなたの名を呼ぶ者/イスラエルの神である」と、ここでの「あなた」とはキュロス王のことです。4節では、「わたしはあなたの名を呼び、称号を与えたが/あなたは知らなかった」と言い放っていますが、すぐに、5節で「わたしが主、ほかにはいない。/わたしをおいて神はない」と念を押しているのです。ペルシャでゾロアスター(拝火教)の信徒であったキュロスは、光と闇、平和と災いというような二元論的対立的発想に馴染んでいましたが次第に対立ではなく、一元論的発想に馴染んでいくのです。すなわち闇と光、平和と災いは対立ではなく、両者とも神の創造であることを受け入れるようになって行くと明言さされているのです。つまり、「知らなかったが、知るようになる」と言っているのです。これは革命的な転回なのです。最初キュロスは唯一なる神の傀儡であったが、やがて主を受け入れるようになることを唯一なる神である主が教え込む形になっている。何度も念を押している。
 5節の終わり2行を御覧ください。「わたしはあなたに力を与えたが/あなたは知らなかった」。 つづいて、「日の昇る所から日の沈むところまで/人々は知るようになる/わたしのほかは、むなしいものだ」と。
 圧倒的に無敵なペルシャ帝国の王は、やがては、しだいに唯一の神に服従していくことをしつこいくらいに繰り返し念を押して教え込む神がここに登場し、しかも第二イザヤの実質的冒頭を飾っているのです。
 今日の7節のテキストの結論を見て見ましょう。「光を造り、闇を創造し/平和をもたらし、災いを創造する者、/わたしが主、これらのことをするものである。」
 創世記を丁寧に読んでみましょう。冒頭の1頁の1章1節、「初めに、神は天地を創造された」。 2節、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」 とあります。光よりもさきに闇が造られているのです。なんという驚き。闇があればこそ光が輝きをますのです。ふだん避けている暗闇、隠されているもの、それらの存在が前面に出て来ることが人生には多々あるのです。
 1135頁のテキストの3節を、もう一度御覧ください。「暗闇に置かれた宝、隠された富をあなたに与える」という主の言葉は、表向きにはキュロスに対して主が言われた言葉ですが、じつは私ども一人一人に向けて言い放たれているのです。暗闇に置かれた宝、これは絶望の暗闇の中にこそ希望が潜んでいること、そしてふだん気が付かない、意識していないところに、隠された富があることを神さまが教えているのです。個人の力量でそれらの宝や富を発見することは不可能なのです。聖霊の助けによって初めて可能になるのです。
 それでは最後にもう一度、世界の現実に目を向けてみましょう。日本国内のフクシマ原発の事故の原因の追及の情けない曖昧さ、さらに再び原発再稼働を目論む政権と大企業支配層たちの露骨な動き、靖国神社参拝をめぐる東アジアを始め、欧米・EUからの強烈な批判、ウクライナ侵略をめぐるロシアと欧米・EUとの深刻な対立。まさに危機の中の世界の現在であります。
 これらの危機の最中にあって、危機を抜け出せる暗闇の中の宝と隠された富をどのようにすれば見出せるのでしょうか。
 それは、イザヤの言葉を傾聴して帰還を実行したように、新しいイザヤの訪れの足音に耳を傾けることです。ということは私どもキリスト者が預言者的な役割を担って行動することであります。ただし、聖霊の導きとお助けによってのみ可能なのです。今が行動を開始するその時であります。
 主よ、私どもを祝福して導いてください。

説教一覧へ