頼りないもの
イザヤ書36章1〜10節
 もう、否、ようやっと弥生の空です。三日前までは如月でした。2月26日火曜日、妻と私は伊勢山田を訪れました。妻は小学校以来の60年振り、私は大学生時代以来、半世紀以前に行ったことがあるのです。
 なぜ今また、と言われそうです。日本人の宗教であるはずの神道の「神」について、考えるヒントがあるやも、と期待して行ったのでした。
 もうひとつの理由。私の人生の中で最も長かった職場は、河井道子が創立した恵泉女学園ですが、道子の父がじつは伊勢神宮の神官だったのです。明治初期の神仏分離強行政策の中で、複雑な事情によって追放された河井家の娘であった道は、北海道に渡って、女性宣教師が創立した全寮制度のキリスト教のスミス女学校(現在、北星学園)に学んで、その後、スケールの大きな人生を切り拓いて行ったのです。五〇代に入ってから一九二九(昭和四)年に東京の神楽坂に恵泉女学園を創立します。あっ、どこかと同じ。そうです、わが土師教会の創立と一緒なのです。河井道子は、神道からキリスト教へと転回した極めて珍しい例なのです。私はかねがね道子の故郷のあたりの空気に触れてみたいと思っていたのです。
 外宮、内宮の豊かな森は、いかにも日本の神々にふさわしい木偏に土の杜でした。二〇年毎の遷宮を終えたばかりの伊勢神宮は、極めて簡素な米倉の形をしていました。タイ北部のチェンライ地方にある農家にそっくりだと言われています。屋根の千木までそっくりということです。じつはアジア各地に時々見られる建築様式です。
 外宮、内宮の第一、第二鳥居を潜るときに畏まって45度、90度のお辞儀をしている若いカップルや黒ずくめの右翼団体を見ながら、今お辞儀をしながら、「神」というものをどう捉えているのか、神社が穢れを嫌って葬式をしない事実をどう考えているのかを聞きたくなったりしました。神国(生きている神である天皇陛下の日本)の国家のために死んだ兵士たちを神社で葬式をしない日本という国の摩訶不思議、それなのに靖国神社で御霊(みたま)として祭られていることの摩訶不思議。
 もう一つ、伊勢神宮の中に風宮(ふうきゅう)という神社があるのをご存知ですか。風の神なのです。鎌倉時代の国難であった蒙古襲来の時、神風が吹いて日本を守ったのがこの神さまであったという説明でした。こんな歴史教育が行われていた事実をご存知ですか。
 こんな摩訶不思議な礼拝を終えて、お祓い通りやお陰横丁を嬉々としてぶらつき、赤福のお土産を幾つもぶら下げて帰る無邪気で陽気な人々にとって、「信仰」の内実あるいは神学大系ってあるのだろうか、神と仏の二本立て興業がなぜ可能なのか、そもそも一般日本人にとって、キリスト教はどんなイメージなのかとあれこれ考えていてかなり疲れました。
 私どもキリスト者にとっての「信仰生活」というものは、彼らには、あるのだろうか。自分が依って立つ原点ってあるのだろうか、と。
 本日のテキストは、イザヤ書の36章の、「センナケリブの攻撃」の前半です。ユダヤ教とそれ以外の宗教における、一方的な神の正統性と真理性の主張の場面です。日本の『古事記』や『日本書紀』などの古典においては、列島国家の中での氏族の争いはあっても日本古来の神と外来の神(仏教)との正統性を争うという正面切った宗教論とは全く無縁なのです。ですからやがて明治時代になるまで神仏習合となっていく日本の曖昧性の遠因にもなっていったのです。ここの事実が、今なお日本人の中には、お寺と神社の区別が付かない人もいるという現象に繋がっている。さらに檀家であり氏子でありという珍現象さえある。牧師の中にも御神輿大好きお祭り牧師さえいるのです。これをもってキリスト教の土着化と言ってよいのでしょうか。
 イザヤ書が語るイスラエルの歴史は、南北の大国、アッシリア、バビロニア、ペルシャとかの北の大国とエジプトという南の大国に挟まれたイスラエル民族の苦難の歴史であり、彼らが依って立つ唯一の神の物語なのですが、周辺の国々の異教の神々との戦いが描かれている。メソポタミアを出発したアブラハム以来、エジプトでの苦難、出エジプトを経て、王国の成立、分裂、そして侵略される危機の中でイスラエルの信仰が試されるわけですが、その危機の中で、神の言葉を託された預言者たちが活躍しています。
 今はイスラエル民族の王国滅亡の危機が迫っています。どのようにこの未曾有の危機に立ち向かって行ったのか、そのときこの神の民(イスラエル民族)がどのように生き延びていったのかを、とりわけ列王記下が詳しいのですが、今日は預言者イザヤの視点からほんの少し人間と神の関係を学んでみようと思うのです。預言者イザヤの物語(36から39章)において、ヒゼキヤ王は、イザヤの語る託宣(神の言葉)を信頼する敬虔な王として登場しています。
 しかし、21世紀の学問としての歴史学から追って行けば、それは歴史的事実と大いに違っているぞということになる。
 では、イザヤ書36〜39章において、列王記下の記事をあえて少し作り替えているのはなぜなのかと追求していくと、そこに人間を救い出そうとして歴史を導いていく神の壮大なドラマ、つまり神の託宣を受けたイザヤの視点が浮かび上がってくるのです。
 神を信じるとは、信仰とは何か、を問う宗教論争が、国家が個人が生きるとは何かを問うことと重なって展開されているのです。アッシリアからの攻撃に晒され続けているイスラエルの信仰がまさに問われている場面なのです。
 36章1節、「ヒゼキヤ王の治世第14年に、アッシリアの王センナケリブが攻め上り、ユダの砦の町をことごとく占領した」 2節、「アッシリアの王は、ラキシュからラブ・シャケを大軍と共にヒゼキヤ王のいるエルサレムに遣わした」 4節、「そこで、ラブ・シャケは彼らに言った。「ヒゼキヤに伝えよ。大王、アッシリヤの王はこう言われる。なぜこんな頼りないものに頼っているのか」 5節、「ただ舌先だけの言葉が戦略であり、戦力であるのかとわたしは言う。今お前は誰を頼みにしてわたしに刃向かうのか」 7節、「お前は、『我々は我々の神、主に依り頼む』と言っているが、」 云々。客観的な事実はアッシリアに刃向かった国々はことごとく滅亡しているのです。圧倒的な戦力の前に勝ち目のない状況の中で、神殿に入っては祈りを献げるヒゼキヤ王及びその後のユダ王国がこの危機とどう立ち向かったのか、イスラエル民族はどうなったのか、バビロン捕囚とは何であったのか、が明確になるのです。ユダ王国を揺るがしたアッシリヤ帝国は、堕落したユダ王と貴族たちを批判する神が遣わした言わば神の道具であるのですが、そのアッシリヤ帝国がおのれの役割をはみ出して神の御心に背いて勝手に動き出した時、神はアッシリヤをも審くのです。
 4節の「こんな頼りないものに頼って」というセンナケブリの台詞は、エジプトにすがろうとするヒゼキヤ王の右往左往する姿を正確に捉えていると同時に、じつはやがてそれは、傲岸な自分たちの上にもそのまま覆い被さって来るです。地上の王の権力は、砂上の楼閣に過ぎない。アッシリヤ、バビロニア、ペルシア、ローマ帝国もことごとく歴史の舞台から消え去ったではありませんか。「誰を頼りにして」という人間の権力を頼りにしている限り、救いはない。
 「在って在るもの」、 すなわち唯一の神以外に仕えるべきものはないのです。形式ばかりの礼拝は無意味なのです。十戒の第1条「あなたは、わたしをおいてはほかに神があってはならない」。 第2条「あなたはいかなる像も造ってはならない」。 これを文字通り実行しなければ信仰に生きるとは言えない。本当の神さまは、神に背く個人や民族、国家を滅ぼす神でもあることを忘れているのが現代人ではないでしょうか。「神は死んだ」と宣言した二十世紀から、我々人間は、さ迷い始めています。その結果が、チェルノブイリやフクシマなのです。犯してはならない領域にまで入ってしまった人間の傲慢を神さまが見逃すはずはありません。すでに審判は始まっているのです。私どもキリスト者に出来ることは、何でしょうか。時代を見抜き、批判し、神の御許へと立ち帰らせる託宣を語る預言者の働きを受け継いでいくことです。時代を見抜く目と力を、キリスト者は持っていなくてはなりません。
 明治の初めに、伊勢神宮を追われた河井家出身の河井道子を支えた聖書の言葉のひとつはイザヤ書40章31節だそうです。1125頁の下段、「主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。/走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」
 河井道子は、戦前偏見に晒されていた瀬戸内海のハンセン病者の「長島愛生園」に学生たちの慰問団を送っていたのです。そして戦時中、国家から何度警告されてもキリスト教主義の看板を降ろさずに恵泉女学園を守り続けました。神に仕えるとはこういう抵抗を貫くことであります。ローマの支配下の獄中から腐りに繋がれた手で各地の教会に手紙を書き続けたパウロの戦いの姿勢も全く同じであります。
 顧みてユダ王国のヒゼキヤ王は、どうだったでしょうか。「我々は我々の神、王に依り頼む」と祈っていながら、一方ではエジプトになびいて打開策を探ろうとしていた。イザヤは、そのヒゼキヤの曖昧さや弱気な愚かさを見抜いていたのです。だからこそ神の言葉を語って勇気づけ励まし続けて奮い立たせたのです。これがイザヤ物語です。家に帰ってからゆっくり聖書を読んでください。
 何者か分からないもの、頼りないものに向かってお辞儀する必要は全くありません。神の証しの体である教会につらなっている事実の重さを噛み締めることが大切です。そして3月5日の灰の水曜日から始まる受難のレントの日々、イエスさまの十字架の苦しみを味わう日々を追体験して、救いの喜びを手に、イースター(復活節)へと雪崩れ込んで行きましょう。
 祈ります。

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