わき腹を刺した
ヨハネによる福音書19章31〜37節
 厳しい寒さが続いています。ふだん余り雪が降らない南部海岸線中心に低気圧に見舞われ、大雪が容赦なく降ったため、雪に対する備えが弱く、とくに過疎地帯は孤立し食糧不足という深刻な状況に陥りました。大都市では停電が広がり、スパーへの荷が滞り、休校、会社では早退を決定しました。雪に弱い、というより文明の脆さ、というものを見せつけられた思いです。土師教会の駐車場は、土と砂利ですから、積もった雪の上を歩くだけで往生した方もいたことでしょう。姫路からいらした河島美穂子姉が雪にもめげず教会に来てくださって、勢いよく掃除をしてくださいました。
 私は、「第十回WCC世界キリスト教協議会(十月下旬〜十一月、於釜山)と日本}というセミナーに参加すべく京都修学院にある関西セミナーハウスに向かいました。セミナーハウスのさまざまな魅力的な行事のご案内はいつも頂いていますが、三時間弱かかるので諦めていますが、今回は大阪教区宣教委員会の代表としての機会を与えられたので喜んで出掛けました。
 みなさんは、キリスト教教会同士のエキュメニカル運動をご存知だろうと思います。世界のキリスト教は、カトリック、ギリシア正教、ロシア正教などのオーソドックス、そしてプロテスタントと大きく三つに別れていますが、さらにプロテスタントは三〇〇余りの宗派に別れています。その別れて行ったグループが、お互いに違った立場にありながらも、主なる一つの神のもとに歩み寄ろうと本気で対話しながら、同時に世界の政治的経済的文化的現実が抱えている諸問題に対して解決のために協力して立ち向かおうとしている運動体なのです。主に在って一つという信仰告白によってそれぞれの多様性にも拘わらず手を携えて突き進んでいます。今やキリスト教はアジア、アフリカ、南米に広がっていて、その勢いは、非ヨーロッパ圏に移っているのです。特に中国のキリスト教が、世界のキリスト教と手を結ぶのは、時間の問題だろうと思われます。こんな流れの中で、日本のキリスト教は、いったいどこを目指そうとしているのかを問われたセミナーでした。高齢化の進んでいるキリスト教ではありますが、中年や若者たちも会議に加わっているのが、大きな慰めでした。
 さて、今日のテキストから、十字架が指し示してくださったキリスト教の精髄を探し出してみたいと思います。
 テキストは、ヨハネによる福音書19章31から37節までです。
 この19章は、イエスさまへの死刑の判決、十字架の処刑、イエスさまの死、そして葬りまでであり、続く20章が復活であります。四福音書は皆この十字架刑を描写しています。今日の小見出しは、「イエスのわき腹を槍で突く」という残酷な題名です。
 話の舞台を、二千年後の日本に移しましょう。昭和三十年代の後半、(1960年以降)の安保闘争に始まる激しい学生運動の嵐の中で、私や妻は青春時代を過ごして来ました。一言で言えば、政治の季節だったのです。映画も嵐の中にあり、大島渚の登場が強烈でした。一方で東映の高倉健などのヤクザ映画も全盛時代であり、自分の命を賭けた切り込みの修羅場になりますと、デモに出掛けて行く大学生たちは自分たちのデモ行進と重ね合わせて、興奮していたのです。そんな映画の場面では、相手の腹をドスで突き刺した、あるいは突き刺されて死んだのです。日本刀もスクーリンの画面に踊っていました。
 が、今日の小見出しは、「わき腹を槍で突く」です。これは殺し合いではない。すでに絶命したものの死亡検証(検死)の場面です。
 その前の場面の山場は、小見出し「イエスの死」です。福音書記者の描写の中心は、支配者の処刑の描写ではなく、イエスさまの最後に焦点が絞られています。十字架の意味を問うているのです。
 28節、「イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた」。 屈辱の果てにまで追いやられてイエスさまが成し遂げられたこととは何であったのでしょうか。「渇く」この苦しみに、はたして私どもは従いて行けるか。行けない。そうまでして成し遂げられたもの、それは全人類の罪を贖うという途轍もないドラマをお引き受けになったのです。その極限での「渇く」苦しみ。
 31節、「ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た」
 33節、「イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった」とあります。
 次の瞬間、何が起こったのか。検死代わりに、34節、「兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水が流れ出た」と。
 死者のわき腹から、果たして「血と水」が流れ出るか。この場面をめぐって現代医学でもこれはあり得るという学説もあるそうです。学問的にどうであるのかは専門家にお任せしましょう。重要なことは、そのあとの謎めいた不可解な文章です。すなわち35節、「それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。」
 という文章です。皆さんには、すうっと素直に入って来ますか。
 そもそも二人あるいは三人の証人を必要とするユダヤの律法からすれば、たった一人の証人しか登場していません。しかもどこの誰かも分からない。どう考えてもイエスさまの処刑の現場には弟子の誰一人そこには留まってはいなかったのです。あえて推測すれば、十字架を見上げていた女性たちの中にいた母マリアに向かって、前章の19章、26節(207頁)、「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。」 27節、「それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です』。 
 十字架のイエスさまを置き去りにして散って行った弟子たちというのが私どもの聖書の読み方でありますが、もしかしたら、このイエスさまが「愛する弟子」がそっと十字架の近くに戻って来て、ローマ軍に気付かれないように忍び込んで、イエスさまを見上げていたのではないか、母マリアを引き受けたその愛する弟子と母マリアを守り抜くために、福音書記者は彼の名前を伏せたままにした。しかし、その証言が真実であることを伝えるためにこんな不可解な記事をあえて書いて載せたのではないでしょうか。この弟子の存在は、ヨハネ福音書で際だっていることはご承知の通りです。さらに推測することをお許しいただけるならば、この福音書を書いた記者自身が、イエスさまが「愛する弟子」ではないのか。そう考えれば納得できるのです。
 そして、「血と水」は、言うまでもなく全人類私ども一人一人の罪を贖うために流した尊い主の血潮であり、聖餐式の度に私どもが永遠に想起し続けるものなのです。そして水はいうまでもありません。洗礼式(バプテスマ)のことであります。水の中に死んで、再び顔を突き出させていただき、続いて全身を立たせて頂くという復活のドラマなのです。
 じつにこの聖餐式とバプテスマこそキリスト教の精髄としての二大聖礼典なのです。
 イエスさまは、御自身を献げ尽くして、キリスト教が何であるのかを証明してくださったのです。イエスさまの「血と水」は、残酷極まる処刑を通してのみ成し遂げられるものだったのです。
 「渇く」
 この凄まじい苦しみの果てに開いた新しい命に預からせて頂く喜びの中に生きている事実は、まさに不可解なほどの恩寵なのです。私どもの努力や業績と関係なく、人間であるかぎり誰もが国籍、人種、身分、文化を越えて与えられる救い、この惠を放ったままでいることほどもったいないことはない。
 世界がどんなに暗く見えても私どもは、見上げることができる。根拠のある希望に生きられる。私は道であり命である」と言い切ったイエスさまとどこまでも一緒に歩いて行きましょう。受洗者が一人でも増えますようにと祈りましょう。そして、今年のイースター(復活節)を喜びを持ってお迎えしたいものです。祈ります。

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