声を聞き分ける
ヨハネによる福音書10章7〜18節
 みなさんは、四国の高知県の南西端にある宿毛市をご存知でしょうか。宿は、宿、毛は毛、です。かつて土佐藩の支藩であった宿毛は、明治維新に政府の中枢を担う人材を数々輩出しています。また1904〜1905(明治36、37年)の日露戦争の時のロシアが誇るバルチック艦隊を迎え撃った日本海軍の艦隊が停泊していたリアス式海岸の宿毛湾として知る人ぞ知る宿毛です。現在は、むしろ桜の開花宣言第一声の地として知られています。真珠貝の養殖地としても知られています。
 私と宿毛は深い関係があります。私が詩の活動を通してもっともお世話になった詩人・大江満雄がじつは宿毛市の出なのです。明治時代の被差別部落解放運動に貢献した大江卓はその親戚であります。大江満雄は、父に連れられて米国南長老会の宿毛教会に通いますが、モーア宣教師に可愛がられて成長します。その米国南長老会が創立したのが四国学院大学であり、私はこの大学に招かれて赴任したのです。大江満雄は、私の赴任を喜んで、四国学院を訪ねてくださり、チャペルで奨励もしてくれたのでした。
 1975(昭和50)年頃の夏、私は、満雄の故郷である宿毛市の片島港から連絡船に乗り、鵜来島経由で沖の島を訪れました。小さな港を囲むように民家が犇めいていましたが、漁民の家は、みんな太平洋の水平線に向かって竹製または木製のバルコニーを突きだしていました。西日本ですから日の暮れは遅く、暗くなっても家の灯りは点きません。家族は皆バルコニーに静かにしゃがみこんで、ゆったりと微笑んでいるのです。
 すっぽりと暗闇に包まれた海の沖から焼き玉エンジンの音だけが聞こえてきました。ポンポンポーン。
 喜びのざわめきが波立ちます。「お父が帰って来た」。 が、舟の姿は見えない。
 あちらからもこちらからも微妙に方角が違っていますが、音が帰ってくる。そのエンジンの音だけで、自分の夫や息子をエンジンの音で聞き分けているのだそうです。つまり音は声であり言葉なのです。これは漁師の家族たちの長年の集中力の訓練によって手に入れた成果なのです。
 旅行者の私には皆同じ音にしか聞こえないのですが、一艘一艘、焼き玉エンジンに個性があり、夫や息子の言葉と重なりあって、嬉しい愛の交わりを感じているらしいのです。零れる笑みに包まれた顔がすべてを語っています。
 さて、今日の説教題は、「声を聞き分ける」であります。10章の3節、「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」とあります。中近東では、羊一匹ずつ名前が付いているのだそうです。ちょうど日本では犬一匹ずつに名前が付いているように。猫も時々名前がついています。人格化されているのです。日本のロボットには、多くの場合固有名詞が付いているのが知られています。
 旧約以来、羊飼いと羊の関係は、神とイスラエルの関係の比喩表現であり、その関係は人格的に結び付いているのです。イエスさまは、その弟子たちにも愛情を込めた名前の呼び掛けをしていました。シモン・ペテロやマグダラのマリアと言うように。
 しかも「自分の羊の名前を呼んで連れ出す」のです。なんという親しさ、喜ばしい情景でしょうか。まさに神の家族です。
 今日のテキストは7節以下ですが、その焦点は「イエスは良い羊飼い」に絞られています。この良いは善し悪しの善いでもありますが、さらに突き詰めると11節に行き着きます。すなわち、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と。あの杖と鞭で強盗と戦い、命掛けで自分の羊を守る。これは命と引き替えの戦いを覚悟していることであり、自分の命を捨てるという極限の生き方を表明しているのです。「良い」の原語「カロス」というギリシア語には、「美しい」という意味も込められているのです。善悪の善と美とが重なることは難しいことですが、善と美と命が、一つになる可能性を積極的に言い現しているのです。
 12節、「羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。」 13節、「彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。」 これらは、ファリサイ派を代表とする偽教師たちを批判したイエスさまの厳しい言葉なのです。かれらに羊は従いて行かない、なぜならその声は知らないからであります。
 ここで羊飼いは、さらにこう付け加えています。14節、「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」 15節、「それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。」 父と子の一体性が語られているのですが、その場合羊のために命を捨てるのを父が認めているというのは、わたしども地上的な親子関係では考えられない。異常としか言いようがない。聞いている周囲のユダヤ人には何のことか分からなかった。弟子たちにも分からなかった。イエスさまは一挙に自分のほんとうの使命を公に語ったのであります。
 しかし、その意味をユダヤ人たちも弟子たちもすぐには理解できなかった。イエスさまは、ご自身と羊たちの関係の、あるべき姿を預言されます。すなわち16節、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」 と。「ほかの羊」とは、異邦人のことであり、「一人の羊飼い」とは、父なる神の遣わされたイエスさま御自身のことであり、偽教師たちをまっ向から拒否していることの表明なのです。そして、全世界が見えない普遍的な一つの教会として成立することを預言なさっているのです。」 御子であるイエスさまの権威と支配は宇宙全体に及ぶという確固たる確信が充ち満ちているのです。
 こうしてイエスさまの宣言は、そのまますぐには理解できない不可解な言葉でありつつ、人々の魂の底にまで染み入って行ったのです。
 その結論は、17節、「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。」 18節、「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」 と。イエスさまには、明解な論理であってもその状況下にあっては、魂に染み込んで行くと同時に、何とも理解しがたい不可思議な言葉でもあったのです。
 こういうことは、よく起こることです。
 その時、実際にはどうなったのか、というと、19節、「この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。20節、「多くのユダヤ人は言った。『彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。』 21節、「ほかの者たちは言った。『悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。』 
 この対立は何が本物なのかという問答であります。最後の盲人の目が開いたという話は、前の9章の「生まれつきの盲人をいやす」奇物語のことですが、多くの人々が、この奇蹟の証人なのです。どうして、このイエスが悪霊に取り付かれて気が変になっていると言えようかと反論しているのです。その結果がどうなったのかは、いつものように聖書は何も書いていません。それは、私ども自身が答えるべきことなのです。
 イエスさまの奇蹟や救いの出来事は、いつも私一人一人に、「あなたはどうなのか」と問うてくるのです。その度に問いの前に立たされている。信仰とは、このように厳しい問いかけなのです。
 宿毛の離島の漁師の家族たちが、焼き玉エンジンの音だけで夫の息子の愛の言葉を聞き分けるように、私どももイエスさまの言葉を聞き分けなければならない。
 ただし、両者には決定的な違いがあります。私どもキリスト者は、訓練によって聞き分ける技術を手に入れたのではないのです。私どもは聖霊の力に助けてもらって、イエスさまの言葉であるかどうかを聞き分けることができるのです。
 あれは、単なるエンジンの音なのか、声なのか、それとも言葉、音楽なのか、それとも通信なのか、それとも夫の、息子の愛の言葉なのかを聞き分ける。じつは、これもかれらの集中力の訓練だけで可能な聞き分ける能力ではありません。かれらにもぴったりと付き添っているイエスさまがいらっしゃるのです。漁師の家族たちは、全く自覚がありませんが、じつは聖霊に守られて聞き分けることができているのです。信仰を与えられた私どもは、イエスさまの言葉を聞き分けてその愛の交わりを人格的に感受して感謝しながら暮らしているのです。ガリラヤのペテロたち漁師たちがどんなに生き生きと生きていたかは聖書が証ししている通りです。彼らは、人間をすなどる漁師になったのです。
 そうです。聖書は、記号としての文字が印刷された通信物ではない。聖書は神さまからの愛の手紙なのです。神さまの愛の言葉を毎日食べさせて頂いて、喜びに溢れて歩んで行きましょう。

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