イエスは世の光
ヨハネによる福音書8章12〜20節
 一昨日2月7日の朝のNHKニュースの天気予報では、8日近畿一円も冷え込み、夜から雪、山間部では積雪35p、停電もあり、水道管の凍結などの恐れもとのこと、生駒のアトリアで一泊するつもりなので、だんだん心配になりました。古民家は冷え切っていますし、暖房もあまり整っていません。私于は、今年初めて。テレビなし、新聞なし。坂の上なので店なし。マイカーなし。荷物は造っておいたカレー、かしわの炒め物、そして懐中電灯、蝋燭、本、電話帳など、生駒は寒くて、なかなか温まらない部屋でしたが、ありがたいことに停電にはなりませんでした。光がないことがどれほど不便であるかは、戦後でも何度も経験済みです。明るい光の下で仕事できることはもったいないぐらいありがたいことだとこの頃実感しています。不安になりながらもどうにか過ごすことは楽しいことです。
 私どもは、そんな整っていない場所で、二週間に一回ぐらいは一泊あるいは二泊して、画を描いたり、読書したり、聖研祈祷会の準備、説教の下調べなどに取り組みます。
 そして消灯後のまっくらな畳部屋で、震えながらふとんに潜って、あれこれ考えていると、天井の杉の羽目板に怪しい人物や獣の姿が浮かび上がってきました。それを楽しんでいると、突然眠るのがとても怖かった幼少時代の夜、天井に現れたいろいろな人や獣の姿を思い出して懐かしくなると同時にとうとうこんな歳になったんだと思ったのです。
 そして昨日土曜日の朝、目が覚めると、玄関に通じる石の階段が凍っていて、転び落ちそうになって、ほんとうに歳だなあ、今後どうなるかなあ、などと心許ない思いになったりもします。ハムも林檎と人参のジュースも黒ニンニクもないちょっとさびしい寒い朝食をすまして、いろいろ片付けごとを終えてから、近鉄で難波まで出て、ようやっと帰宅して一服すると、たまにする遠出って、案外いいもんだ、がたがた震えながらも楽しかったなあなんて、思ったりもしました。
 みなさんは、どうやってリフレッシュしているのでしょうか。
 さて、今日のテキストは、仮庵祭で上京したイエスさまがヘロデの神殿に入って説教している場面です。
 婦人の庭の金のでっかい燭台の灯があかあかと灯されて、エルサレムの町一帯を広く照らし出していたのです。その神殿でイエスさまの宣教が繰り広げられていたのです。
 イエスさまを逮捕するために下役たちが派遣されますが、成功しません。切羽詰まった状況を踏んまえて、イエスさまは、自分が何者であるのかをついに真っ向から露わに押し出したのです。
 12節、「イエスは再び言われた。『わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。』 と。
 真っ向切って言い切ったイエスさまは、消える事のない光そのものなのです。エルサレム中を照らすと言われていた大燭台の灯りよりももっともっと遙かまでを照らす光、何よりも時代の闇を、人間一人一人が抱え込んでいる絶望という「暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と断言してくださったのです。それは私ども一人一人が世の光であるイエスさまの光の海のなかで光って生きていくことであるのです。
 ここまで辿り着いたとき、ヨハネによる福音書の冒頭の一章四節(163頁)があらためて浮かび上がって来るのです。すなわち、「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」。 
「言葉の宗教」と言われているキリスト教の神の言葉の本質を「光であり命」であると宣言しています。
 「命は人間を照らす光であった」(1章4節)と「わたしは世の光である」(8章12節)は、力漲る宣言であると同時に真理なのです。
 13節、「するとファリサイ派の人々が言った。『あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない』」 とまっ向から批判します。手続き上から言えば、この批判は当たっています。みなさんが後承知のように、旧約の律法から言えば、少なくとも二人の証人が必要だからです。イエスさまは、その批判に答えて、14節「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である」と切り返しているのです。その理由は、思い掛けない切り口で語られました。14節、「自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちはわたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。」 これを聞いたファリサイ派の人々は、即座に答えようとしたでしょう。「あなたはナザレの大工ヨセフの息子、死ねば陰府にくだる」と、そこまで口に出掛かって、ちょっと待てよ、そんなありきたりな答を待ってるはずがない。そもそもイエスの答えそのものがわたしらの要求に応えていない。ずらされてる。このずらしは意識的な何かの罠だ。が、その罠の正体が見えない。下手に答えたら引っ掛けられる。どうしたらいい」と考え込んでしまったとき、イエスさまは、自分の行動の背景には父がいることを明言されて、ファリサイ派の人々は、父とは何だろう」とますます混乱してしまったのです。
 この14節のイエスさまの言葉を聞いて、みなさんは十九世紀後半のあるフランス人画家の有名な画の題名を思い出しかも知れません。その人の名前は、ゴーギャン。1848年〜1903年)腐敗していた世紀末のヨーロッパを離れて太平洋のタヒチ島に移住して晩年一八九七年、全精力を集中して描いたあの画の題名は、「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」でした。あのどでかい長方形の画は、創世記の楽園追放を連想させる構造であることは分かるのですが、それだけの単純な画であるはずがない。多くの謎に覆われています。
 私自身は、旧約よりは、むしろ新約により深く関連づけられた画である。しかもこの十四節が下敷きになっていて、一番肝心な所が、「我々は何者なのか」が主題なのだと思います。人間誰もが抱く苦悩がこれです。
「私とは何者なのか」、 この問ほど答えが見つからぬ問いはない。
 この問に対して、イエスさまほど明解に答えている者はいません。なぜなら父なる神と子なる神との一体性、連続性の中で答えているからです。父なる神に勝る証人は他にはいないのです。だからイエスさまは、こう付け加えて答えておられます。
 19節、「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」
 ファリサイ派の人々の問をみごとにずらして、イエスとは誰かというかれらのほんとうの知りたい問に真正面切って答えたのです。
これこそ彼らが知りたかった答えであり、同時に知りたくなかった答えなのです。怒りと恐怖に同時に襲われた彼らがどう行動したか、イエス抹殺、これしか自分たちを守る方法がが見えなかった、というよりもうそれ以上考えたくなかったのです。
 私ども21世紀のキリスト者は、全世界が瞬時の間に政治的社会的情勢に巻き込まれ巻き込んで動き続けている地球の中で暮らしています。この地球と天体の全体をどうして管理し守っていくのか日々問われているのです。それぞれの民族、人種の独自性を生かすためにはお互いの多様な文化の共存を本気で考え、生かしていく道を絶えず追求して行くべきなのです。
 じつは、それが、「我々は何者なのか」という問であり、この問の前に立って、「わたしは世の光である」と言い切って、あなたがたも「命の光を持つ」と保証してくださっているイエスさまから励まされながら生きていく道が見えているのです。
 戦争の危機の中にある地球の現実の中に、現在の日中韓の東アジア国際関係があることをしっかり認識しないと航路を誤ってしまいます。しっかり歩んで行きましょう。キリスト者の命の光がどんなに尊いものであるのかを知っている我々は、イエスさまと共にしっかり歩んで行かなければなりません。主の十字架の道は厳しいけれども、栄光へと行き着く道です。苦しみが喜びへと変えられていく道です。
 教会の歌碑の斜め前の北田さんのお庭の紅梅の蕾が膨らみ始めました。花一輪一輪ほどの暖かさです。
 希望を捨てないこと、希望に生きることに全力投球できる喜びに一日一日を積み上げて行きましょう。イエスさまは世の光なのです。

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