わたしも言うまい
ルカによる福音書20章1〜8八節
 イエスさまが全力を注いだガリラヤでの伝道は終わった。そして、いよいよ最後の目的である聖地エルサレムへの入城へと行進を開始したのであります。もちろん十二弟子たちも従った。エルサレムへと上ってゆく起点にあるオアシスの町、世界最古の城壁都市エリコに姿を見せたイエスさまは、民衆の敵と見なされていた徴税人の頭ザカイの苦悩にぴったりと寄り添って彼を救ったことはご存知の通りです。
 そこからエルサレムへの荒れ野の道を上って行きました。そして、聖なる神殿へと入るや否や、本来祈りの場である神殿が堕落しているのを目の当たりにしたイエスさまは、激しく怒って神殿を荒らし回った。大乱闘。つまり、たった一人で殴り込みをかけたのであります。その荒々しい行動に違和感を覚える人がいるかも知れません。この行動をどう受け取ったらよいのか戸惑うかも知れません。
 そうです。イエスさまは、宮潔めを実行されたのです。宗教改革の始まりなのです。イエスさまが表現なさった大乱闘は、ほんとうの宗教を取り戻すための怒りの愛の表現だったのです。
 一方、神官や指導者たちは、イエスさまの権威と行動力と語る力を前々から憎んでいたのです。が、民衆の手前逮捕できず、爆発しそうな嫉妬の中で、その苛立ちは沸騰点に達していたのです。自分たちがしがみついている宗教的政治的権威を脅かしてくるイエスさまを無き者にして殺すことを企み、その機会を狙っていたのです。彼らは、権威とは何かという論争に持ち込もうとしていた。その問そのものは正しかった。が、その権威は、自分たちの利権を守るためにしがみついているにせものの権威だったという本質があばかれているところに、この物語の魅力があるのです。
 20章1節からは、今日のテキストであり、そのテーマは。ずばり小見出し「権威についての問答」であります。2節、「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」 と彼らは言い寄った。
 するとイエスさまはしっかと受けて答えたのです。3節、「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。」 4節、「ヨハネの洗礼は、天からのものだったか。それとも、人からのものだったか。」 と。
 
 私どもの常識では、天の反意語は地上の地だと思います(つまり天地)が、テキストは、あきらかに「人」だと言っています。
 みごとな反意語です。神に立ち向かうのは、いつも人間だからです。人間は常に自己拡大を狙う愚か者であり、あわよくば神になり代わりたいという誘惑を抑えられないおぞましい存在です。この場合の神とは天と言い換えてもいいでしょう。天という概念は、中韓日の東アジアを貫く思想概念であり、神でもあります。天は儒教概念であり、肉体を持たない神であります。尹東柱という日本帝国主義支配下の韓国の抗日詩人が残した、たった一冊の詩集『天と風と星と詩』の冒頭を飾る「序詩」を紹介します。

  死ぬ日まで天を仰ぎ
  一点の恥もないことを
  葉群れにそよぐ風にも
  私は心を痛めた。
  星をうたう心で
  すべての死んでいくものを愛さねば
  そして私に与えられた道を
  歩んでいかねば。

  今宵も星が風にこすられる。

 天という言葉は私ども日本人には馴染み深い言葉であります。しかも親近感がある。天と地という垂直線の地上に人間が住んでおり、人間は太陽が輝く天上を絶えず見上げながら生きている。
  死ぬ日まで天を仰ぎ
  一点の恥もないことを
 という祈りは、どこまでも倫理的な求道者の姿であります。天、あそこは神がまします場であり、神そのものでもあります。ただし人格が感じられないのが儒教の限界であります。
 関西にいますと、古典の世界が日常の現場に顔を見せてくれます。例えば、明日香にある大和三山は万葉集にも登場しています。天の香具山、畝傍山、耳成山です。ただし、「,テン」ではなく、「アメ」と発音します。なぜ天がアメなのでしょうか。
 私どもは、海が好きですが、海岸に立って眺めると、遙かに見える水平線は、空と海が接しています。天と海が接している光景は私どもの心を解き放ってくれます。
 天から降ってくるあの雨は、天そのものの涙であり、天(アメ)と雨(アメ)は本質的に一つだと原始の日本人は考えたのです。
 と言うことは、日本人は、垂直的な天と水平的な海とが一つであると考えた。空の奧に天国を、水平線の奧に蓬莱の島や西方浄土を思い描いたのです。垂直水平でも良い。それは私どもの心の中に宿る王国、つまり「天」とは、心の中に宿った見えない王国のことなのです。窮極の実在といっても良いでしょう。
 ユダヤの支配者たちがしがみついた権威というものが成立する根拠が、天からのものか人からのものかと詰問してきたのです。その時、イエスさまは、「ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」 と。かれらは混乱した。罠を仕掛けたのに、その罠に自分らのほうが嵌められてしまった。自業自得とはこのことなのです。悪意をもって仕掛ければ、その悪意は自分に振り掛かってくる。
 「天」からと言えば、何故ヨハネを信じなかったのかと詰問されてしまう。「人」からと言えば、「民衆はこぞって我々を石で殺すだろう」。 ああ、どうしたらこの苦境から逃れられるだろうか。混乱は続いた。悲鳴をあげたくなった。しかし、沽券に関わる。我々の政治的、社会的、宗教的地位や評判、品位、身分に差し障りが起こる。ええい、ちきしょう。そして彼らは答えたのです。
 天からか、それとも、人からか、「どこからか、分からない」と。
 イエスさまは、すかさずこう答えた。
 八節、「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、私も言うまい」。 と。
 イエスさまは、茶目っ気たっぷり、お人が悪い。緊迫した重い関係を上手にずらして、すっと通り抜けたのです。聖書は、それでどうなったのか、何も書いてありません。
 私どもが分かることは、にせものの権威を振りかざしていれば、必ずその正体は剥がされる、みっともなくなるのが目に見えるということです。イエスさまの権威は、力が漲ったものであり、何者も覆すことが出来ない正義そのものだということです。ならば、言うまでもない、天からなのです。
 権威という概念を押し出して、その意味と力を問う宗教は、他には見当たりません。キリスト教は、「言葉の宗教である」ことはみなさんも認められることでしょう。が、さらに、「権威の宗教」でもあるのです。イエスさまの言葉が、聞く人の心を打つ。それは論理的に追求、展開された話術であるのではなく、論理よりは、比喩の魅力、ずらしかたのの魅力、高度なユーモアと笑い、などがもたらす解放劇なのです。魂が震え出すドラマがもたらす愉悦だといってもいいでしょう。もう一度8節を御覧ください。
 「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」 
 この結論の言葉こそ、父なる神が与えてくださった聖霊が働いてイエスさまの口から飛び出してきたものなのです。
 すなわち、イエスさまこそ天から来た神の子であることが証明されているのです。
 ハレルヤ。

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