信仰を増して
ルカによる福音書17章1〜10節
 不順な天候が続いています。寒暖の差が激しく、歳のせいもあるでしょう、皆さんが体調を崩すのではないかと気になっていました。   
 そんな寒さを吹き飛ばすような興味深いテレビの番組タイトルが金曜日の夕食後、目に入りました。NHK第一、午後8時からの、
「ええとこ 東大阪石切 銀シャリの元気満点旅 
 ▽体にいい参道グルメ 
 ▽ご長寿の驚き健康術 
 ▽漢方薬店の感動秘話」 です。
 銀シャリって、寿司屋のことかと思ったら、タレントの芸名なんですね。
 じつは、妻と私は、昨年、初めて石切へ行きました。なぜなら占い(易や韓国系呪術の女性たちの店)が軒を連ねていると聞いたからです。韓国の呪術をする女性は「ムーダン」と言いますが、仏教の卍印がある小屋にいて、なになに菩薩と名乗っています。が、仏教とは関係ありません。多くの韓国人は何かあると、ムーダンに占ってもらうのです。
 妻と私は、ちょっと懐かしさもあり、訪れたのです。近鉄石切駅から長い参道の坂道をずうっと下っていく石切矢剣神社まで続く門前町です。岩石をも突き通し、切り裂く矢と剣で病気から救ってくれる御利益信仰の典型、石切の神さまは大人気、お百度参りの人でいつもごった返している。私どもの場合は、占いの店、店の雰囲気に強い違和感を覚え、それっきり行ったことはありません。
 今回NHKの取材のテーマは、宗教ではなく、「健康」でした。胃腸癌が直ったという主婦、少年時代片足が動かなくなった、その足を直してもらった、と言う九二歳のお爺さんも登場していました。かつてこの参道には漢方医薬店が沢山在り、漢方薬を造るための水車が1970年まで20台も廻っていたそうです。生駒山系には豊かな水脈があるので、(滝)修業が盛んだったことは知っていました。が、植物を擂り潰して漢方医薬を造るために、江戸時代以来水車の動力を活かして来たとは知りませんでした。今も一軒だけある、水車の原理を活かした機械で製造している現場が写し出されて、心動かされました。
 明治以降の日本は、伝統的な東洋医学を捨てて、西洋医学に基づくものだけを学問と認めて医学部を運営しています。隣の韓国では、医学部は、西洋医学と東洋医学の二本立てです。日本は、じつに安易に東洋医学を棄て去った。富山の薬売りのような形で生き続けてきましたが、もう終わり。
 石切の山の中腹に高さ五メートル余りの水車が一台だけ復元されていました。
 薬局という言葉はあっても漢方薬店という言葉はもう殆ど聞きません。石切ではたった一軒だけが営業されている。
 庶民にとっての癒しとは、信心とは何かをあらためて考えさせられた番組でした。
 さて、今日のテキストの小見出しは、「赦し、信仰、奉仕」です。どれもなかなか実行できません。真面目に考えれば考えるほど、もう、トホホホ、です。
 でも勇気を持って読んでみましょう。
 1節、「イエスは弟子たちに言われた。『つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。2節、『そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。』 
 ルカ福音書はおそらくエルサレム陥落後、80年代頃に書かれていると推測されています。原始キリスト教団が組織的にもしだいに整え始められている頃の、(使徒たち)弟子たちに対してイエスさまが厳しく教訓を垂れている場面です。ここでは、信仰の躓きについて語っています。
 教会の「小さい者」というのは、信仰の道に入ってまだ日の浅い会員たちを指導する立場にある者、あるいは教会の役員たちに対する教訓だと受け取っていいでしょう。
 そもそも「躓き」とは何かと言えば、イエスさまから引き離して、従っていけないようにする誘惑の罠のことです。その罠を仕掛ける役員は、重い臼を首に懸けられて海に投げ捨てられる方がましだと言うのです。これでは死刑に準じる極刑に等しい。厳しすぎる。が、これは二千年前の教会分裂に与した意図的罪悪集団に対するイエスさまの非妥協の審判なのです。
 が、21世紀のの現在に於いては、実際のところ、罠を仕掛けて、弱い信徒を引き摺り堕そうと意図的に実行する者はまれです。殆どの場合、自分のしていることの意味が分からない。もっと言えば、「小さい者」のためになるだろうと思って善意でしたことが小さい者の心や魂を傷つけ、その結果、教会から離れて行ってしまうことになる場合の方が深刻なのです。傷付ける意志は毛頭ないのに傷つけてしまう、しかもその原因が分からない。そんな人間関係ってあるのです。善意が裏目に出てしまうこと、私どもも、ひょっとすると、あの時がそうだったのかと、不意に思いつくことがある。が、もう遅い。
 3節、「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。」 「戒める」は、過ちを犯した小さな者に、自分の罪を認めさせて、徹底的に反省させて、悔い改めさせ、信仰の道に引き戻してやることです。と言われれば、またしてもその責任の重さにトホホホです。
 その間にほんとうに反省して、4節、「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」。 
 この場合の赦すは、指導者としてのあなたの権威をほんのわずかでも意識して振りかざせば、相手は敏感に見抜くでしょう。罪を犯して赦しを求める人の方が、罪認識はより深い。赦すという行為一つをも安易にすることはできない。まして、七回もできるはずがありません。この場合の七回とは無限に、でありましょう。
 「できない」。 むしろ私が「小さい者」になりたいくらいだと言いたくなるかもしれません。が、ここで踏み止まって、考えなければならない。何故、主は私を指導者の一人として立てたのか、と。主は、私どもの限界を十分に分かっていながら任命しているのです。私どもがなすべきことは、できるか、できないか、ではありません。はっきりしています。「できない」のです。この事実を謙虚に受け入れた時、初めて主の言葉の前に、立っている意味が分かる。主の信頼にお答えするためには、できない私が、信仰を増すことができますように、と祈るのみです。だいたい、「信仰を増す」という表現そのものが不遜です。ほんとうは主の前に立たされているだけです。信仰は1+1=2という具合に祈れば増えるというものではありません。信仰は主によって増えるのではなく、深められるものなのです。信仰の量が増えることなどありえない。
 この圧倒的な「できない」私を心の底から認めた時、初めて主からの惠みとしての信仰に目覚めるのです。すなわち私が小さな者を赦すのではなく、小さなものと全く等しい者として、神の惠みの中に目覚めることだけが、信仰の革新、つまり新しい出発なのです。そういう徹底的な謙遜が見えて来た時、私が指導者の一人に任命された意味が分かるのです。神の前での兄弟姉妹であるとは、そういう徹底した関係で結ばれていることなのです。
 7節以下の僕論は、主体性が全然認められていないではないか。キリスト教の隣人愛はどこに行ってしまったのかと批判されそうですが、そうではありません。ここでのイエスさまの真意、つまりほんとうに言いたいことは、僕の働きの評価ではありません.僕の立派な働きも生きるエネルギーも努力もすべては、神さまが与えてくれている事実なのだ、それ以上でも以下でもない。そうではなくて、私を存在させて下さっている主を誉め讃えよと叫ぶべきなのです。
 再び石切に戻ってもどってみましょう。
 私は、庶民の願掛けを否定しません。自分の親の病気を直して下さい。私を社長にしてくださいと祈って悪いことはありません。ごく当たり前なお願いなのです。私ども自体庶民なのです。
 が、これだけが神社参り、寺参りでいいのかと、私は、あえて問いたい。
 結論、私どもキリスト教徒は、「私たちの罪をもお許しください」と祈るのです。罪意識のない信仰ってありえない。
 「無辜の民」つまり、罪のない私(たち)が、なぜこんな不幸に出会わなければならないのかという主張は、一見説得力を持っているように見えますが、根本的に誤っています。無辜の私なぞ存在しないのです。願掛けという素朴な願いは、じつは私(たち)だけの利益を求める飽くなき追求なのです。
 生きるとは、神さまに生かされていることを感謝することだという原理を持てない信仰は、この地球を与えてくださっている存在に気づかない愚か者の自己中心主義に過ぎない。
 石切で妻と私が感じた違和感はここに尽きます。世界は私個人、私ども人間のためにのみ存在してはいない。動植物、自然も含んで生きているのです。エコロジーとは、生かされている者として、他のすべての被造物と共に感謝しながら生きるということです。
 信仰とは、神の前に立たされていることを自覚しつつ、立つことです。ほんとうの祈りとは、造られた被造物として、小さな者としての感謝を献げつつ生かされる喜びの告白なのです。

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