汚れた霊
ルカによる福音書4章31から37節
 元旦からまたまた冷え込みが厳しくなっています。今年の冬は寒波が押し寄せるとのこと。身も心も引き締まる日々も、なかなかいいものです。冬の花と言えば水仙の強い香り、八手のくるくる回り出しそうな球型の白い花が浮かび上がります。冬を歌った詩人と言えば、『智恵子抄』で有名な高村光太郎の作品「冬が来た」がまっ先に浮かび上がります。冒頭の出だし四行を紹介します。

  きっぱりと冬が来た
  八つ手の白い花も消え
  公孫樹の木も箒になった
  きりきりともみ込むような冬が来た

 この厳寒の季節を大歓迎、来るべき春の準備をしつつ我が身を鍛える時とする強い倫理性を感じさせる詩です。高村光太郎のお父さんは高村光雲です。東京上野公園にある西郷隆盛像の作者です。その息子が光太郎。光太郎は、若くしてアメリカ、フランスに留学、あの彫刻、「考える人」を造ったロダンに弟子入りした人物です。彫刻家であると同時に詩人でもあります。奥様が智恵子さんです。妻・智恵子への思いを描いた詩集『智恵子抄』が有名です。
 光太郎はキリスト者ではありませんが、ヒューマニストの理想像としてのイエスさまに深い共感と関心を抱いていて、クリスマスの詩も書いています。
 さて、今日のテキストはイエスが世を救うキリストすなわちメシアであることを証明しをしている一場面であります。
 著者のルカは、医者であり、原始キリスト教史の最初の書き手であります。ルカはシリア生まれのユダヤ人、もしくはギリシア語に長けた異邦人であろうと言われています。パウロの世界伝道旅行の同伴者でもありましたが、もちろん全行程ではありません。おそらくパウロの病気治療のために同行したらしい。高い教育を受けたようで、医者としての客観的な分析力と卓越したギリシア語の文章表現力、文学的構想力にも恵まれていました。
 さて、医者であるルカは、イエスさまの伝道開始を、4章14節から報告しています。
そして31節からが、今日のテキストです。
「イエスは、ガリラヤの町カフェルナウムに下って、安息日には人々を教えられた」。 続いて32節、「人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。」 
 どんな教えであったのかは、33節以下の行動を通して証明される。
 ただし、ルカはイスラエルの地理には疎いところがあり、どこから「下った」のか曖昧。明らかにエルサレム中心主義で、イエスさまの宣教舞台であるガリラヤ地方について認識不足です。が、ルカ福音書の構成はじつに用意周到であり、論理的展開もしっかりしているのです。
 ですから、今日のテキストでは、安息日における悪霊追放から始まって、シモンの姑の熱病の癒し、その他の人々の病気の癒しを、ここで描いています。
 これらに一貫しているのは安息日への挑戦なのです。週の初めである安息日の迎え方、過ごし方についてはレビ記などで事細かに規定されていて、違反すれば死刑さえ待っていた。が、イエスさまは、その安息日に病気を癒す。人間の命を救うために安息日はあるということを行動を通して教えてくださっている。人間のために安息日はある、と。
 33節、「汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ」。 34節、「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」 この「ああ」という感嘆詞は小説的、映画的です。これは、ルカの実感的テクニックです。「汚れた悪霊」は、サタンの中でも一番下っ端に位置付けられていたようですが、霊に満ちたイエスの力を受信する能力を与えられていたようです。その証拠に、「かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか」と、戦意喪失。敗北宣言です。
 これでは勝負にならない。悪霊は、自分の相手に対して、「正体は分かっている。神の聖者だ」と叫ぶ。イエスさまが神の派遣した聖者だと重々承知している。その告白と取れる絶望的なまでの叫びにイエスさまはどうお答えしたか。35節、「『黙れ。この人から出て行け』とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。」  
 悪霊は悔しさで一杯になり、せめてもの腹いせに「その男を人々の中に投げ倒し」という表現には、記者ルカの余裕たっぷりのユーモアさえ感じられます。どさっという音さえ聞こえそうで、私は思わず、うふっと笑い出してしまいました。36節、「人々は皆驚いて、互いに言った。『この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。』 32節では、「その言葉には権威があった」でしたが。36節では、「権威と力とをもって」であります。権威は、思わず襟を正したくなるような凛とした張り詰めたものの遍在、であります。「力」は、権力、暴力でもありますが、むしろ、片仮名の「パワー」と言う方がぴったりでしょう。権威とパワーに満ちたイエスさまなのです。
 つづいて「汚れた霊」という言葉が出てきます。「よごれた」とはルビが振ってない。「よごれた」は、見た目で分かる。幼稚園生でも分かる。が、「汚(けが)れた」となると、幼稚園生にどう説明しますか。見えないけれども汚れている状態、それは呪われた、悪や魔性に取り憑かれた状態なのです。「黙れ。この人から出て行け」と権威と力とを持って命じられる存在って、すっごい。これはやはり驚きなのです。
 そして続く109頁、38節以後は、シモンの姑の高熱の癒し、病人たちの癒しと続きます。これらは、イエスさまがたしかに権威と力を持ったメシアであることの証拠を証ししているのです。
 が、ここの個所で大切なのは、41節です。「イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスをメシアだと知っていたからである。」 
 イエスさまは、メシアであることを露わにしたくなかった。何故か、目に見える華々しい見せ物を売り物にする安易なショーのオンパレードを見せたところでどうなる。人々がどよめき押し寄せてくるだけだからです。その証拠に、42節、「朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。」 
 イエスさまのその後の行動はご存知の通りです。今は、メシアであることを公にするときではない、しかし、これだけが理由ではない。
 今日の31節以下の記事で決定的に欠けているのは何でしょうか。群衆が求めているのは、病気を癒す即効薬です。そして回復する、万歳、イエスさま。感謝、イエスさま、という筋書きが見え見えなのです。
 ここまでは、まだ宣教の始まり、序曲なのです。
 安息日については、6章1節からの「安息日に麦の穂を摘む」において、5節(112頁)で「人の子は安息日の主である」と言い切っています。
 さらに、癒しについては、7章1節からの「百人隊長の僕を癒す」で、もっと深い視点から詳細に事の本質が論じられていきます。115頁の9節、「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と。
 つまりイエスさまと弟子たちの関係、そして、百人隊長のイエスさまへのまったき信頼が産み出す物語なのです。
 みんなが喜ぶ大掛かりな即効薬販売ショーでは意味がない。イエスさまと一人一人が出会い、私という一人の人格が変革されて行く物語が、4章ではまだ実現していなかった、のです。ルカは、40節(109頁)「一人一人に手を置いて癒された」にも拘わらず、一人の人間としての変革までには至らず、四二節、「群衆はイエスを捜し回って」が語っているように、愚かな群れ、烏合の衆に止まっていたことを見抜いているのです。
 
 さて、翻って、汚れた霊から解放された私どもは、その後受洗をしたのです。けれどもそれで十分なのではない。受洗した事実を受け止めて、新しい人として生き抜いているかどうかを絶えず自己凝視して(自分を見詰めて)生きて行くべきなのです。
 一日一日、主の祈りを心して唱えて、胸に刻み込んで生きようではありませんか。
 祈ります。

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