新しい言葉を語る
マルコによる福音書16章14〜20節
 明けましておめでとう、ございます。
 新年初めての京都の白味噌と関西の丸餅のお雑煮をいただき、悔い改めをしました。今年もよろしくお願い申し上げます。
 さて、今日は、先週の「信じなかった」のまとめをしようと思います。イエスさまに本気で従いながらも復活という、キリスト教の生命線の核心を、本気では想像できなかった弟子たちの愚かさが、どのような契機を経てイエスさまへの信従につながったのか、その原点に近づこうと思います。
 先週のテキストから振り返ってみましょう。16章の最後、97頁。空っぽの墓を見て、白い長い衣を着た若者の言葉を聞いた8節「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも言わなかった。恐ろしかったからである」。 
 マルコ福音書はここで終わっていた。しかし、このままでは復活がほんとうにあったのかなかったのか、分からないので落ち着かなくなった人が、結びを書き加えたのだが、その結果は、はたして、と、言うのが年末の宣教でした。
 私は、「描かないことを通して復活を暗示したのです」と述べました。描かないことを通して描いたという逆説に満足しない人たちが現在も沢山います。が、描くとはどういうことでしょうか。描く前に自分の肉体を通して復活という出来事に出会っていることが前提です。ほんとうのことに出会った時、人はどんな反応をするのでしょうか。肉親の死、あるいは誕生の現場に出会った時、その瞬間、あなたはどう反応したのか思い出してください。「ああ」とか「おお」とか、言葉にならない感嘆詞と共に、息を呑んだのではないでしょうか。「悲しかった」、 「嬉しかった」などという月並みな表現では我慢できません。だからと言って、客観的な分析と心の動きを詳細に述べたら上手く伝わるというものでもありません。それこそ、「言葉がない、言葉では表現できない」という月並みな台詞しか言えなくなるのです。
 にも関わらず、必死になって真実を伝えようとして補足(補った)結びの一、二から私どもが学べるものがあるとしたら、それは何か。正月元旦の朝、心を新しく整えて、考えて見ましょう。
 14節、「その後、11人が食事しているとき」とあります。ユダが闇の中へと消え去ったあと、イエスさまの酷い処刑が終わったあと、彼らは、どこに集まっていたのか。エルサレムか、ガリラヤか。正解はありません。官憲は政治犯イエスの残党狩りを展開していたのでしょうか。それとも追い回すほどもないと放って置いたのでしょうか。いずれにしても、イエスさまを裏切って見捨てた弟子たちは、追っ手の目を逃れて、一同身を寄せ合って隠れるように一日一日を過ごしていたはずです。裏切りと逃亡の自責の念(後悔の思い)に囚われて。とりわけペテロは絶望のどん底に投げ込まれていた。その食事の席に、14節、「イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである」。 イエスさまだ、ほんとうにイエスさまだ、後悔にさいなまれていた弟子たちは歓喜に踊り出したかったのだが、どうしていいのか分からずうろたえていた。15節、「それから、イエスは言われた。『全世界に行って、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい』と。マルコ福音書のイエスさまは、生前宣教を展開していたとき、シリア・フェニキアの女の悪霊を追い出しています。ユダヤから異邦人の世界へと活動の領域を広げて行ったのです。ですから「全世界に行って」、すなわちローマ帝国全土へ出掛けて行って福音を伝えよという伝道命令を出したのであります。続いて十六節、「彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る」。
 二千年前の社会には、数え切れない悪霊がうじゃうじゃいたことでしょう。一番身近な悪霊は人間を病気にする、身体障害者にする悪霊だったでしょう。悪霊を追い出すこと、これはたいへんな救いだった。現代でも病気からの治癒は、世界中が期待する普遍的な目標です。宗教者は医者でもあった。
 この場合、異邦人の世界に入っていくには、言葉が問題です。外国語運用能力という難問が立ちはだかっています。弟子たちの多くは、ガリラヤ湖の漁師であった、あるいはイエスさまのような大工、農民であった。かれらはどうやって外国語を身につけたのか。17節の「新しい言葉」とは何を指すのか、もうお分かりでしょう。この外国語の獲得を復活のイエスさまが保証なさっている。これは一人一人に下ってくる聖霊なくしては不可能な出来事なのです。聖霊の助けによって異邦人の言葉が宿るのです。
 私どもは、学校や塾を通して語学学習はするものだと考えやすいのですが、「必要は発明の母」と言うように、ほんとうに福音を伝えようと実感するならば、主に頼って、助けて下さいと祈るのです。それが御心であれば、聖霊が助けてくださいます。
 二千年間、キリスト教の宣教は、必ず聖書を伝道地の言葉に翻訳するというもの凄い労力を通してなされてきたことを、思い出してください。日本にいても、私どもは、文語訳、共同訳、新共同訳、新改訳などいろいろ自由に読めるのです。翻訳という難業にどれだけ多くの人の労力が注がれてきたか、正月という良きときに思いを馳せてみようではありませんか。中国人のための漢訳聖書が日本の聖書翻訳史にどれほど多くの貢献をしてきたか振り返るだけでも大きな感動をもたらすこと請け合いです。関西の教会についてあまり知らない東のキリスト者はかつての私を含めて土師教会という名前を見ると、すぐに士師記を思い浮かべて、「おっ凄い士師教会だ」と思い込んでしまうのです。「士師記」という表現は、漢訳聖書からの直輸入です。世界中でもっとも翻訳が多い書物は断トツで聖書なのです。ギリシア語やへブル語ではなく、日本語で神さまのメッセージに直接触れられるのですから素晴らしいですね。キリスト教の伝道が宣教師たちの命掛けの宣教活動である事実を支えているのは聖霊の力なのです。
 さあ、もう一度、97頁上段の最終行、16章6節以下を御覧ください。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれる、かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」
とは、主を裏切って見捨てた弟子たちに、にも関わらず、甦ったイエスさまが今度こそ徹底的な信従(信じて従うこと)をしなさい、そして福音を伝えなさいとお招きしていることを、つまり躓いて狼狽えている弟子たちに、「それでもいい、立ち上がれ、伝道せよ」と語り掛けてくださっているのです。イエスさまが先頭を切って働き、宣教して、死んで、復活したその生き方を自分たちの生き方として生き抜くこと、それこそが弟子の道であることを肉体を通して教えられた事実が、復活の体験なのです。
 三人の女性たちが「震え上がり、正気を失っていた。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」。 これは、復活の凄さに圧倒された事実を語っているのです。神の出来事としての復活の事実に遭遇したとき、それは正気を失う恐怖そのものなのです。
 19節、「主は彼らと共に働き」というこの言葉こそ、私どもの信仰の証しでなければならない。キリスト教がいかなる弾圧にも屈せず生きつづけてきた本当の理由はここにある。年の初め、誇るべきものは主の働きだけなのであります。
 祈ります。

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