信じなかった
マルコによる福音書16章9〜13節
 今年も余すところあと三日間のみです。が、大掃除が終わっていない家があるかもしれません。それどころか大掃除の習慣はもうない、必要を感じない、と言うかも知れません。各々の家の前の門松も見掛かけません。希望と願いを込めたお節料理の準備をしない家もあります。店に注文して届けてもらって、はい、終わり、ちと寂しい。
 慌ただしい年末の風景はほとんど見られなくなりました。
 1970年代半ばくらいまでは、12月28日、飛ばして30、31日には、庭先での餅搗きが残っていました。29日は、関西では、苦しみの苦を搗くのでタブーだったそうですね。その頃、まだ臼があって、蒸した熱熱の餅米を臼の中に入れて、捏ねて捏ねて、杵で搗いたものです。関東では四角い角餅、次に丸い鏡餅。そして最後に辛味餅、あんこ餅、黄粉餅を先を争って頬張りながら、紅白歌合戦を楽しんだものです。
 時代は変わりました。凧揚げする広場もなくなってしまいました。手作りの凧に使う籤(ひご)と言っても子どもらはもう分かりません。
 残っているのはポチに入れたお年玉くらいです。隣の韓国にもお年玉の習慣は残っていますが、裸のお金のまま子どもらに配ります。
 歳の始めの親への挨拶は、韓国は頭を床にこすり着けて恭しく行われます。
 こんなことを年末ちょっと思い出しています。戦後どさくさの数年余りの貧しかった日本、お腹の回虫と頭の白癬(しらくも)に悩みながら、アメリカ映画に心奪われて育った子どもの頃、つまり小学校高学年の頃まで、我が家の天井は焼夷爆弾で焼けた真っ黒な梁が剥き出しでした。
 そして朝鮮戦争が終わって、中学生になり、たちまち高校生になった。世界はいつまでもこんなはずはない、もっと美しく、夢と希望にあふれた世界が来るはずだ、という思いから、キリスト教に関心を深め、福音自由教会の扉を押し開けたのでした。梔子の花が咲いているペンテコステ(聖霊降誕祭)に受洗しました。17歳でした。キリスト教の価値観で世界をひっくり返すのだという強い決心をしたのです。
 ただし、今思えばまだまだ青二才、未熟児幼稚でした。が、キリスト教がこの世俗世界との対決を促してくれたのであり、それが故に、その後地上の故郷からの流浪の旅が始まったのであります。埼玉、京都、下関、四国、韓国、東京と続いたのであります。さらに堺へとこの流浪は続いていました。そして大阪府堺市土師町に神さまに指し示されて赴任しました。今月の8日には、按手礼式があり、正式な主任担任教師、牧師になりました。
 ここが地上での最後のターミナル・ステーション。後は、超特急で天の故郷への突入となるのでしょうか。
 さて、今日の題目は、「信じなかった」であります。一年の終わりにこんな題目でいいのですかとお叱りを頂くかも知れませんが、これでいいのです。私どもの切実な問題がこれです。「信じるとはどういうことか」、 これは、かつて「信じなかった」私の過去とまっすぐに繋がっている筈です。信・不信とは何かといつも考えているはずです。私どもは、人間の知性や学問や業績を過剰に信じている。そして宗教の核心である「信じる」行為を少々軽く見なしているくせに、じつは自分の知性を信じている。しかも過剰に信じているのではないでしょうか。 さて、マルコによる福音書はもっとも短い共観福音書です。十六章の前半、テキストに入る前の小見出しは、「復活する」です。三人の女性たちは、週の初めの朝早く、日が出るとすぐイエスさまの墓にやってきたのですが、墓は空っぽだった。これは信じられない出来事でした。誰かが大きな墓の入り口の石を転がしていた。誰かが主のご遺体を運び去った、と咄嗟に思ったのです。
 が、そこには5節、「白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた」。とあります。なぜ、「立っていた」ではないのでしょうか。
 この場合の「座っていた」とはどういう情景でしょうか。その当時、墓の中に椅子が在ったのでしょうか。これは「腰掛けて」という意味でしょうか。それとも中近東の習慣に従って、地面に、あるいは岩の上に座っていたのでしょうか。ダビンチの絵である最後の晩餐は、弟子たち全員がテーブルを囲んだ椅子に腰掛けていますが、ほんとうにそうだったでしょうか。その頃の食事は、地べたに座ったままか、石のソファに寝そべって食べるのが高級な人々の正式な食べ方のスタイルであったはずです。
 私ども日本のキリスト者は、西洋が描いてきたイメージに乗せられ過ぎてしまって、なかなか当時のイスラエルの暮らしを正確に掴んでいないようです。私は、文字通り座り込んでと解釈したいのですが、皆さんはいかがでしょうか。
 それはそれとして、若者は、思いがけないことを語った。六節、「若者は言った。『驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」 
 イエスさまは、14章28節、晩餐の席上で「あなたがたより先にガリラヤへ行く」と明言なさっているのです。が、誰もその意味を素直に受け取ってはいなかった。そして裁判のすぐ近くの中庭で、事実上弟子たちの代表であったペテロに至っては、イエスさまのことを「そんな人は知らない」と誓い始めた時、鶏が再び鳴いた。一番鶏の声が暁を招いた。そしてイエスさまの言葉を思い出してペテロはいきなり泣きだした。大声をあげて男泣きに泣いた。それを知っていたイエスさまの思いを若者は代弁したのです。7節、「さあ、行って、弟子たちとペテロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれる』」と。「弟子たちとペテロ」という言い方は明らかに)矛盾していますが、泣いて後悔して引き籠もっているペテロの名前をわざわざ挙げて、イエスさまはペテロを元気づけようとなさっている。
 十字架の酷い処刑を見詰めていた婦人たちも含めて、みなイエスさまの告知を受け入れていなかった。イエスさまの墓が空っぽになるとは考えてもいなかったのです。
 ご遺体に塗るはずであった婦人が持って来た油は、どうなったでしょうか。聖書は何も語りません。
 それどころか、8節、「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも言わなかった。恐ろしかったからである。」
 これでマルコによる福音書は終わっているのです。えっつ、ほんと。復活したイエスさまは登場しないの。どうして、と言いたくなりますね。
 人間は、じつにいろいろな想像力に恵まれています。文学作品を読んでいると圧倒されることが一杯あります。が、私ども凡人は、所詮これは作り事、絵空事なんだと割り切って、日常的現実に戻って来てバランスを保っているのです。ところでイエスさまの弟子たちは、本気でイエスに従っていましたが、復活だけは聞き流した、というよりは、あれはあまりにも途轍もない話なので、どういことなのだろう、きっと何かの譬え話なのだろうとしか思いつかなかった。だから三人の女性たちも若者に復活を告げられたとき、自分たちの想像力からはみ出ている出来事を受け入れられなかった。それは恐怖さえ伴う信じられない出来事だった。
 が、歴史の事実は、教会が生まれた。原始キリスト教が成立した。イエスさまの復活が無かったらキリスト教の成立はありえない。
 マルコは、間違いなくキリストの復活の証人なのです。が、それをどのように表現したらよいのか思い及ばなかった。恐怖のままに逃げ去った婦人たちを描いて、その後に起こったことは何も描かなかった。描かなかったことを通して復活を示唆(暗示)したのです。 
 描かなかったということは、描いたことよりもはるかに強く描いていると言うことなのです。
 なぜここで終わってしまったのか、またこれがマルコの復活の描き方なのだとしたら、これはどう解釈したらいいのかと当時の人たちも考えました。その人たちがキリスト教成立の秘密を描こうとして、必死になって真実を伝えようとして書き加え、補った部分が、実は今日のテキストなのです。
 結び一と結び二です。まず「マグダラのマリアに現れる」では、11節「イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことも聞いても、信じなかった」とあります。続いて小見出し「二人の弟子に現れる」の13節、「この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった」とあります。これはルカ福音書のエマオへの道の記事のことでしょう。この結びの中で復活したイエスさまに何人かの弟子たちが出会ったということは分かりますが、説得力はあまりありません。むしろ、記者が言いたいことは、「信じなかった」という部分のみです。
 「信じなかった」という事実は人間の頭の営みの限界をしっかり押さえているのです。
 自分の知性を過剰に信じている人間の愚かさがここでは表現されているのです。そこからどうやって証しの共同体が成立して行ったのかが元旦礼拝のお楽しみです。
 歳の終わりに当たって、私どもに必要なことは、主に救われた事実を感謝する事のみであります。私どもの知性の営みを大切にしなくてはなりませんが、決して誇ってはなりません。財産も来歴、業績も誇ってはなりません。すべては、主のものであり、主が一人一人に与えてくださった賜物をいかに他者のために役に立たせていただくのか、そこにのみ私どもキリスト者の喜びがあるのです。
 誇る者は、主を誇れ。
 祈りましょう。

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