ユダの決着
マタイによる福音書27章3〜11節
 今日は、アドベントの第3主日礼拝、3本目の蝋燭が灯っています。いよいよ来週は、クリスマスです。
 さて、イエスさまのお誕生については、来週のお楽しみということにして、今日はイエスさまの最後の晩餐の出来事に焦点を絞って、考えてみましょう。
 イエスさまの十二弟子たちの中での筆頭は、もちろん、ペテロであることに異論は無いでしょう。が、イエスさまを中心にしたこの宣教グループ集団を実質的に支えたのは誰か、と問われたら、答えるのが難しくなってきます。あえて答えれば、イスカリオテ(ユダ町出身のケリオテの人の意)のユダではないでしょうか。イスラエル武力解放戦線にも属していたとも言われています。が、このイエス集団での正式の職名は、会計です。会計係と言えば大蔵大臣です。国家の財政を握って、政策を動かしていく人物です。そのユダがこともあろうにイエスさまをユダヤの支配者側に売り渡して、しまった。この悪人ユダは、はたして救われたのであろうか、と、二千年間、論じられ続けています。
 ユダの本心は、どこにあったのか、なかったのか、いまなお謎を含んだ分からない人物、その人物の心の複雑骨折の一部分が語られているのが、次の文章です。
 誰が書いたのでしょう。本人には申し訳ありませんが、ちょっとつまみ食いさせていただきます。
 「申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は酷い、酷い。はい。厭な奴です。」
 ユダは誰に訴えているのでしょうか。キリストへの愛憎そして善悪交々入り乱れた心のドラマが展開されますが、イエスさまが弟子たちの足を洗ってくださる場面があります。「足を洗う」と言えば、心を入れ替えて新し生き方を選ぶという意味ですね。イエスさまに足を洗われたとき、ユダは、
 「きょうまで感じたことの無かった一種崇高な霊感に熱いお詫びの涙が気持ちよく頬を伝って流れて、やがてていねいに洗って下され、腰にまとって在った手布で、そうだ、私はあのとき、天国を見たのかもしれない。
 「みんなが潔ければいいのだが」 はッと思った。
 あの人からそう言われて見れば、私は潔くなっていないのかも知れないと気弱く、とみるみるその卑屈な反省が、醜く、黒くふくれあがり、逆にむらむら憤怒の念が炎を挙げて噴出したのだ。え あの人に心の底からきらわれてる。売ろう。売ろう。そうして私も共に死ぬのだ、と前からの決意に再び、、、、」
 「金が欲しくて訴え出たのでは無いんだ。ひっこめろ、、、、いいえ、ごめんなさい、いただきましょう、そうだ、私は商人だったのだ。金銭ゆえに、私は優美なあの人から、いつも軽蔑されて来たのだっけ、、、、」
 ユダの揺れ動く心のジグザグは、キリストに対するユダの、命掛けの逆説的な求愛表現であります。そして場所こそ違え、エルサレムを舞台にした愛の無理心中事件だったのです。ここまでは、ユダが夢想した命掛けの愛の物語であります。
 この文章「駆け込み訴え」を書いた人は、1940年(昭和15)に、あの有名な「走れメロス」を書いた人物です。戦後、38歳で自殺した太宰治兄貴です。
 ユダは、多くの作家の心を捉えて来ました。愛と憎しみが交互に揺れ動く現実をそこに見出して共感してきたからです。文学者は人間の救いを求める現実は描きますが、その答えにはあまり関心がない。安易な解決を侮蔑しますが、救いを拒否しているわけではないのです。文学は人生の難問を解決しようとはしません。内村鑑三は、「源氏物語」を悪魔の書として糾弾しています。
 さて、今日のテキストは、小説ではありませんから、聖書のメッセージは何処にあるのか手探りしていきましょう。
 小見出しは、「ユダ、自殺する」というショッキングな見出しです。私は、「ユダの決着」という題目にしました。その理由は、救われたか否かが主題ではなく、ユダ自身が自分の人生の幕を自分で閉じることを選んだ事実に焦点を絞って考えたいからです。
 マタイによる福音書の27章の冒頭の夜明けは、四福音書がすべて触れています。
 1節後半「一同はイエスを殺そうと相談した。」 2節「そして、イエスを縛って引いて行き、総督ピラトに渡した。」 
 サンヘドリン(ユダヤ人議会)は、すぐさま第二回の裁判を開いて、イエスさまの死刑を決定して、その告訴状を作製して、その告訴状を添えて、ローマから派遣されている総督ピラトに引き渡したのです。ユダヤ人議会の死刑宣告理由は神の冒涜(涜神罪)であったが、ローマは宗教的信仰的内容については関わらないので、ユダヤ人議会は、民衆を扇動して騒乱、反乱を目論む反ローマ政治犯に仕立てるために、イエスさまが「ユダヤ人の王」を自称しているとでっち上げたのです。
現代でも先進国家の世俗裁判は、宗教の教義内容に関する裁判は取り上げないのが常識です。
 続く3節、「そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨30枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、」 とありますが、後悔先に立たず、時すでに遅し、でした。「銀貨30枚」は、どういう値段の付け方なのでしょうか。30枚、それはイエスを売った代価なのです。世界を救うために歴史のまっただ中に送られてきたメシアの代価は、奴隷一人の値段だったのです。しかもその金は神殿に献げられた献金から取り出されたのであります。もうすぐ罪のないイエスさまが政治犯として処刑されようとしている。良心の呵責に責められるユダは、銀貨30枚を返そうとします。四節、「『わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました』と言った。しかし、彼らは、「『我々の知ったことではない。お前の問題だ』と言った」。5節、「そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ」とあります。太宰治の屈折した純愛物語とは決定的に違っています。何という凄まじい陰惨な政治権力構造の実体、何という恐ろしいドキュメンタりー風リポートなのでしょう。私には、秘密保護法の今後を予感させるような恐怖政治が目に浮かんできます。
 確かに、ユダは良心の呵責に責められた。
 が、その良心の呵責をどこでどう表したらよいのか、ここで決定的に間違った。イエスさまを裁いた議会の前で罪を告白してもなんにもならない。そこは自分たちの利得しか考えない偽善者の集団にすぎない。しかもその背後にはローマ帝国が控えている。
 では、ちっぽけな存在のユダはどうしたらよかったのか。時すでに遅し、です。が、たったひとつ出来たことがあるはずです。それは主イエスさまの前に進み出て赦しを乞うことだった。そして、自分も一緒に処刑されるように願い出ることだったはずです。
 そこで何が起きるかは私どもには想像できません。沈黙するのみです。良心の呵責に苦しんだこと、その痛みは想像できます。その後、早まった、というより誤った。ユダが自分で決着をつけたことが間違いなのです。自分で自分の人生を決着つけられると思うことは、じつは傲慢なことです。
 私どももこの危険性をいつも抱いています。小説「駆け込み訴え」のユダは、どこで誰に訴えたのでしょうか。読者へ、でしょうか。読者ははたして適切な判決を出せるでしょうか。ユダの所詮独りよがりな愛の夢想ではなかったでしょうか。テキストの中のユダも独りよがりです。が、聖書の中に書き記され、描き出されて、二千年間、人々の心の中に強い印象を残し続けているのです。
 さて、最後に11節を御覧ください。「総督がイエスに、『お前がユダヤ人の王なのか』と尋問すると、イエスは、『それは、あなたが言っていることです』と言われた。尋問とは、厳しく問い詰めることです。ここを抑え込めれば、後はローマの意志次第であり、ユダヤ議会が望む所です。が、イエスさまはその後何もお答えにならなかった。地上の政治的権力の王をイエスさまは目論んではいらっしゃらなかった。すべてのものを支配し超越している絶対の王、それはピラトにも理解出来ない究極的な存在であった。
 王の王、キングオブキングス。あの合唱「ハレルヤ」の一節です。私どもが、駆け込み訴えできるのは。当然主であるイエス・キリストさまのみです。イエスさまこそ私どもの罪を決定的に赦して下さる方なのです。赦すことは並大抵のことではありません。ほとんど不可能なことです。赦す、この重い業は、十字架の贖罪があって初めて可能なことなのです。
 もう一度言います。赦すことは並大抵のことではありません。ほとんど不可能なことです。赦す、この重い業は、十字架の贖罪があって、初めて可能なことなのです。
 地上での生きる苦しみ、悲しみのすべてを知っていて慰めと憐れみとを注いで下さる主にすべてを委ねて生きる安らぎこそ、平和の始まりなのです。
 祈ります。

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