手を洗わずに
マタイによる福音書15章10〜20節
 いよいよ師走です。師が走る忙しない12月と言われています。私はどうもこの諺に実感がありません。師走の師とはどんな人のことをいうのでしょうか。国会議員、医者、弁護士、学校の先生でしょうか。牧師、それとも僧侶、神官でしょうか。次の言葉をご存知ですか。師走比丘尼、師走坊主、師走浪人、皆貧しく疲れ果てている人物たちらしいです。
 それよりも米屋の子として育った私は、年の瀬は、お節料理ならぬ関東なので四角い伸し餅、石油の配達に追われるもっとも忙しい辛い時でした。父は能書きを宣べるだけで、いよいよ大晦日が近づくとさっと奧秩父の山奥へ逃げってしまって、残された母と子どもらだけで借金追い立てに怯えながらかつがつお正月を迎える昭和20年代後半でした。その後、当然ながら店が倒産。どんなに給料生活をしている会社員家族が羨ましかったことか。ささやかでも一家団欒団している夕食の風景を窓の奧に見ると、声を出して泣きたくなったものです。 
 大晦日の真夜中、ようやっと年越しができることが分かって、母と子どもらは、まだ灯りが点いている店を探しに行って、元旦を迎えるための下着を買いに行ったのでした。
 そんな遠い遠い年の瀬の光景を今は懐かしく思うのです。祖父母、父、母、姉、三人の兄、皆去って行きました。今年の正月は尋ねてくる肉親は誰もいません。ルオーが描いた夜の裏町を歩いているあの黒く縁取りされたキリストの絵が、温かく感じられる今年の師走初日です。
 なんと言っても今日は、アドベントの初日、嬉しいです。
 毎年クリスマスがやってくる。必ずやって来る。悲しんでいる、苦しんでいる、重荷を背負って泣いている人の所にやってくるキリストを思い描くだけでも胸が熱くなります。
 こうして灯された最初の一本の赤い灯を見ていると、あの「マッチ売りの少女」が浮かんできます。また小川未明の「赤い蝋燭と人魚」も思い出されます。この二つの童話は、貧しさのために追い詰められて死んでいく不運な少女を描いています。少年時代泣きなが何度も読みました。キリストは、貧しい人々に接して、「天国はあなたがたのものだ」と宣言しています。福音は真っ先に貧しい人々に訪れたのです。
 さて、今日のテキストは、ヨハネによる福音書15章10節から20節。冒頭の小見出しは、「昔の人の言い伝え」です。その2節、ファリサイ派と律法学者たちがイエスさまのもとに来て言ったのです。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」 前後の文脈を踏まえずに読めば、なるほど手を洗わずに食事をするのは非衛生だ。ノロウィルスがまたしても流行する兆しを見せているというではないか。手をよく洗わなくては、な。でも幼稚園生でも分かってることだ。イエスさまと学者たちがやりあわなくてはならないほどの大事でもないのに、さてなあ、と思うでしょう。
 ちょっと待ってください。「昔の人の言い伝えを破るのですか」と勢い込んで非難しているのです。「昔の人の言い伝え」とはいったどんな意味を持っているのでしょうか。「手を洗う」には、何か特別な意味があるのでしょうか。あるにはあるのですが、それが問題なのです。「昔の人の言い伝え」は、もともと律法が破られることがないように、それを守るようにと意図的に作られた政治的産物なのです。すなわち律法の周囲にあれこれと規則を飾り立ててがんじがらめにして、人々を脅すために造り上げた極めて悪質な言い伝えということにしている口伝なのです。ファリサイ派や律法学者が「昔の人の言い伝え」であると権威づけていますが、実は彼らが作ったものなのです。いわば非文書化律法なのです。
 ですからイエスさまは、その巧妙に仕組まれた嘘(欺瞞性)を厳しく突いたのであります。3節、「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。4節、「神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。五節、「それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」という者は、父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。偽善者たちよ」と。
 イエスさまは、ファリサイ派や学者たちを逆批判します。すなわち表面的にはいかにも律法を遵守しているように見えても、ほんとうは形式だけであって、自分が造り上げた言い伝えを押しつけて、神を裏切っているその欺瞞性を弾劾したのです。
 ここからさらに、群衆を呼び寄せて、何が汚れているものなのか、何が汚れていないものなのかを明確に語られたのです。支配層たちの巧妙な嘘に惑わされずに神の民として堂々と生きるために、です。
 「手を洗う」という行為が清めであるというのは、衛生的か非衛生的かと言えば、もちろん衛生上に必要な行為ですが、イエスさまは、そういう次元での行為を問題にしているのではありません。もっと我が身の存在そのものが神の前に清いものとされるか否かという霊的次元での存在の意味を問うているのです。
 ですから人間の霊的次元での清さとは何か、そして神の前での汚れとは何かという次元に問題を移動させて、本格的にまっすぐにこの問題を展開してくださったのです。
 イエスさまは言われたのです。17節、「すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。18節、「しかし、口から出てくるものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。19節、「悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。 20節、「これが人を汚す。」と。 
 ここで私どもは、考えねばなりません。「心」とは何か、と。実は聖書で言う「心」には、微妙な光と影があるのです。新約聖書がいう心とは、人間の内的生命の中心として、すべての霊的、精神的働きの座標軸であり、その根源を指しています。そこは知性よりは、意志と決断をつかさどる場所であります。人間のこの心を中心にこの心が人間の人格とか自我というものをもっとも表す働きを担っているのです。
 心は、人間と神が出会う場所なのであります。が、先ほど心には光と影があると申しましたが、神と出会う決定的な場所なのにその働きを「閉ざしてしまう自我」が働く場所でもあるのです。罪の影です。これが、18節の「口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す」と書かれています。人間のこれでもか、これでもかと言わんばかりの夥しい悪意、殺意、偽証などはみな閉ざされた心から出て来るのです。
神と人格的に交わる喜びに出会って初めて心は心になるのです。心という単語一つの内実に対して私どもは日頃鈍感なのです。ですからこの18、19節を読むと、あれ、どういう事だろうと戸惑ってしまうのです。心の持っている光と影をよく見詰め絶えず神さまとの出会いを深めていなければよい働きには辿り着けないのです。
 では結論に入ります。20節の後半をご覧ください。「しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない」と。手を洗うことは衛生上重要なことは誰でも十分に分かっているのです。そのことと人を汚すこと、汚れを克服する霊的生活をごちゃごちゃにしてはならないのです。
 イエスさまの凄さは、いつもほんとうの事柄の核心はどこにあるのかを鮮明にして、人間のあるべき姿勢を教えてくださっていることです。実は、霊の助けをいただいて初めて出来ることが沢山あるのです。それを私どもは時々奇跡だと驚き、また感謝をもって受け入れるのです。信仰によって、というよりは霊に導かれて造り上げて行く世界にこそ私どもの地上の生活のほんとうの意味が宿っているのです。
 今日から始まったアドベントを一日一日吟味しながら歩んでいきましょう。イエスさまが私どもの世界のまっただ中に訪れてくださったこの啓示の意味を今年もまた新しい感動を持って経験できますように導いていただけるように祈りましょう。
 いと高きところには栄光、神にあれ
 地には平和、御心に適う人にあれ。

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