父の命令は
ヨハネによる福音書12章44〜50節
 「陰膳」、という言葉をご存知だろうと思います。陰のお膳と書きます。旅に出た人の安全を祈って、留守宅で用意して供える食膳のことです。食卓あるいは仏壇に供えます。私ども70代ならば、あの戦争中、戦地に出て行ったまま帰らぬ父を待ちつづけて陰膳を供え続けていた家族の姿を覚えています。シベリアからついに帰って来なかった父たちもいました。母子家庭で育った同級生もいました。陰膳は、死後も続いたのです。
 戦死と分かっても続いた陰膳は、さらに今も生きているはずのあなたへと供えられる食事なのです。高野山に行くと、毎日空海さんに献げる食事が運ばれていく儀式を見ることができます。
 が、人間の記憶は、だいたい三代が限界です。祖父母の時代までが記憶の生々しさが残ると言われています。
 11月の第一聖日に行われる当教会の召天記念礼拝は、去年からプロジェクターを利用するようになり、写真と説明による記憶がさらに整理されました。とはいえ、創立から85年も経つと、この人については良く分からないという人も出て来ています。だからこそ召天記念礼拝が必要であり。教会の歴史を新たに胸に刻む儀式が必要になるのです。そして生々しい記憶の代わりに教会の先輩たちとして歴史に刻み込む日となり、教会の伝統とは何かを問い直す日となるのです。
 もう今では消えてしまった方法ですが、高知県東部の太平洋岸の在る村では、毎年盆踊りがあります。盆踊りは村の共通の死者たちと今生きている村人たちとの交流の祭りです。この村では踊り手は、それぞれの家の仏壇を負んぶして踊ったのです。こうして死者と生者が一体化して村の暮らしを熱く味わい直すのです。民間に伝えられた祖先信仰の祭りなのです。現在は村の夏の娯楽であり風物詩ですが、肝心の仏壇は家に置きざりにされたままです。
 現代の日本は、寺の檀家制度も崩壊状態ですし、孤独死が増えてきています。
 そもそも死者を弔う葬式を行うのは、人間だけです。医学部の解剖実習でも、「死体」と「ご遺体」と言うふうに、言葉を使い分けています。死という厳粛な事実の前に人間は敏感なのです。が、同時に葬式が蔑ろにされつつあるのも事実です。キリスト教の葬式が深い印象を与えているのは、やはり死者の復活という揺るぎない確信に立って、行っているからです。特に日本では、キリスト教の葬式は、同時に伝道の場なのです。
 さて、今日のテキストは、死と復活を巡る十字架のドラマを前にしたイエスさまの言葉が語られています。
 ヨハネによる福音書12章44から50節までです。小見出しは、「イエスの言葉による裁き」です。イエスさまの言葉は行動する言葉です。ときには比喩を通して、公の宣教運動を通して、神の愛と真実を伝える為に大胆に語ってきましたが、なかなか信じない者が多い。それどころかユダヤ教の指導層や支配層は、イエスさまの言動に脅威を感じて、イエスさまを殺そうという計画まで立て付け狙っています。ラザロもついでに殺してしまおう。ユダヤ教の権威と力に楯突くものをこの際抹殺しよう。イエスさまは、36節で、「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」と述べて、「イエスはこれらのことを話してから、立ち去って、彼らから身を隠された」と書かれています。そして、38節には、『主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか』と言った預言者イザヤの言葉が引用されているのです。ユダヤ人たちのこのようなぶ厚い不信仰の壁に囲まれて、エルサレムへ上って最後のドラマを演じるまではと忍んでいたイエスさまは、ついに、44節、「イエスは叫んで、こう言われました。『私を信じる者は、私を信じるのではなくて、私を遣わされた方を信じるのである』と。遣わした方と遣わされた私という関係は、キリスト教に特有な論理であり、ユダヤ教には全く見られない。仏教、神道にも見られません。
 しかも、「叫んで」と書かれています。これは大声を上げて、あるいは怒りを込めてとも取れる表現です。何度も伝道旅行をして神の言葉を語ってきたのに信じないばかりか、イエスさまを逮捕し殺そうと目論んでいる官憲たちに対して、最後の言葉を尽くして神の真意を伝えようするのです。
 しかし、人々には不思議な台詞としてしか耳に入って来ません。45節、「私を見るものは、わたしを遣わされた方を見るのである。」と。
 なんと不可解ことを言ってるんだ。何が何だか分からない。国家に楯突くこの男を抹殺しよう。
 ちょっと振り返って見ましょう。42節、「とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。」 43節、「彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである」
 イエスさまを信じることによって生き方が根底的に変わるか否かという瀬戸際にあっても、議員という肩書き、世俗的な名誉の方を好む人間のお粗末さが、如実に暴露されているのです。決断するときを逃したら、もう二度と訪れて来ないかもしれない。今、悔い改めなければ、今しかない、明日では遅すぎる。にも拘わらず、そんな機会を失ってしまうのが私どもの弱さ、迂闊さ、もっといえば愚かさなのです。
 だからイエスさまは、叫ぶしかない。
 イエスさまは、あからさまに、自分がこの具体的な歴史の只中に遣わされて来た意味を露わにしたのです。
 46節、「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た」と。人生に行き詰まったことのない人は、この世が地獄じゃ、と言われても共感しないでしょう。しかし、この経験は年齢とは関係ありません。地獄という言葉を理解できる人ならば誰にも通じるのです。地下まで墜ちる必要はない。この地上の人生そのものが地獄なのです。それをイエスさまは「暗闇」と表現しているのです。「わたしは光である」と言明するイエスさまがここにいらっしゃるのです。他宗教では考えられない生と死の独自な視点が旧新約聖書にはあります。すなわち、被造物世界が創造される以前から原初の時からあなたは神に覚えられていたと、例えばヨブ記で語られています。
 そして新約では永遠の命が保証されているのです。生まれる前から死後の生までがぴしっと信仰体系化された世界がキリスト教なのです。これが光の世界です。私どもは、目映いばかりの光の世界から歓迎されている。招かれているのです。この光を拒む理由は何一つありません。この世界に入国するビザを手にいれるためには、まっすぐな信仰が十分条件なのです。しかもこの信仰は神から与えられる賜物でもあるのです。
 この光の世界に招かれた時、ようやっと先祖崇拝の民間信仰から解き放たれるのであります。死んだ後は、故郷近くの野山に魂となって浮遊して生者たちを見守るという終わりのない危うい見守りの義務から解き放たれるのです。盆の度に故郷に呼び出されて背中に負んぶされて交流する苦行に耐える必要はなくなる。
 私ども人間にとっていまなお最大の問題が死の恐怖ですが、復活の保証によって死の向こう側へと希望を繋いで行けるのです。死よ、お前は今何処にいるという死の克服、死への勝利こそ私どもの信仰の新たな出発であることをここに再確認しようでは在りませんか。
 もう少しテキストの先の方へと進みましょう。47節、「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。私は、世を裁くためでなく、世を救うために来たからである。」と。
 私という個人はもちろんであるが、神は、私どもが管理を委託されているこの世界全体を救うのが御心なのである。ここには人間以外の自然全体、被造物全体の救済という大きなテーマが掲げられている。現在の環境問題の先取りも含んでいるのです。48節、「わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。私の言葉が、終わりの日にそのものを裁く。」 イエスさまの行動する言葉についてはいままで何度も学んで来ました。言葉はすなわち神なのであり、道なのです。言葉が裁くとは、神御自身が裁くという意味なのです。聖書がなぜ言葉だけなのか、その答えが今日のテキストなのです。言葉は道であり、神であったというヨハネ福音書の第一書と再び合致するのです。
 50節、「父の命令は永遠の命であることをわたしは知っている」。永遠の命に入れという命令が今日父から訪れたのである。
 さあ、父からの命令に従って、永遠の命を賜物として遠慮無くおしいただきましょう。 
 ただし、21世紀の現在においては、1日1日、み言葉によって、私どもの生裁かれていることを忘れずに、お互いに慰め励まし合って神の国をまわりに広げて行きましょう。言葉が行動と結び付くとき、同時に信仰が豊かに実を結ぶのです。
 祈ります。

説教一覧へ