地に落ちて
ヨハネによる福音書12章20〜26節
 11月14日(木)の「朝日新聞」朝刊第一面のトップ記事は、台風三〇号の猛威に襲われたフィリピン、レイテ島の記事でした。瞬間風速90メートルは想像を絶しています。
 オルモックの惨状写真が掲載されていました。オルモックという地名を聞いてすぐさまフィリピンが浮かび上がる人は、かなりの日本文学通です。第二次大戦の日本軍敗残兵たちの飢餓状態を描いた大岡昇平の「野火」に出て来る地名なのです。十四日の朝刊は、そのオルモックのカラー写真でした。町は跡形も無く消え失せています。最近の世界の天災は、ほんとうに目を覆わざるをえないほど悲惨です。これは、どう考えても、人間の傲慢が産み出した人災としか言いようがありません。ついに地球を壊してしまったのではないでしょうか。人間が犯してしまったこの恐ろしい環境破壊に手を打たなければ、地球は壊滅してしまうかもしれません。
 あの戦争でレイテ島の野戦病院にへとへとになって辿り着いた肺結核の田村一等兵は、そこも追われてジャングルをさ迷います。オルモックに皇軍の救援機が来るという噂が流れ、西へ西へと歩み続けながら、倒れていった死体があちこちらに転がっている。飢餓の中で、死体にこびりついている蛭や蛆を食べてきたが、不意に、人肉を食いたいという衝動に襲われる。死体を俯せにして軍刀で切り裂こうとした右手を、その瞬間左手が強く押さえ込んで放さない。そのとき頭上から、「立てよ、いざ立て」という讃美歌が大きく聞こえてきた。田村一等兵はふらふらと立ちあがったが、そのまま気を失った。目覚めたのは、戦後日本の精神病院の中だった。オルモックに救援機は来なかった。
 空腹のまま迷い込んだジャングルの奧の教会堂で現地の女性を射殺してしまった田村一等兵のおぞましい罪は、はたして拭えたのか。
 罪の問題を抉った戦争文学の傑作ですが、答えはありません。作者の大岡昇平は、少年時代に青山学院で過ごしました。その時に触れたキリスト教がこの小説に陰を落としています。
 さて、今日のテキストは、宣教活動を終えたイエスさまの最後のエルサレム入城の冒頭場面です。小見出しは、「ギリシア人、イエスに会いに来る」。 20節、「礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた」。 これはユダヤ教に改宗したギリシア人のことです。彼らはさらにイエスさまに関心を抱きやってきたのでした。その頃、イエスさまは、すでにユダヤ教の異端として目の敵にされていた。ユダヤの官憲はイエスさまを逮捕し殺す機会を窺っている時だった。肝心のイエスさまは、福音理解をユダヤ教を越えて伝えようとしていたのです。ギリシア人は、イエスさまの新しい教えを知りたいと思って来たのです。ですからギリシア語名であるフィリポにお願いしました。「イエスにお目にかかりたいのです」と。
 22節、フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。なんとまだるっこしいのか。アンデレはどういう役割を担っているのかと知りたい人もいるでしょう。アンデレは、フィリポと同じくベトサイダ出身であり、地味だが配慮が行き届く仕事ができた。後に「アンデレ行伝」という使徒伝説が生まれたほどの人物です。
 イエスさまがこのギリシア人に会ったかどうかは何も書かれていません。
 が、23節、イエスは、「こうお答えになった。『人の子が栄光を受ける時が来た』と。
 十字架の救済のドラマの始まりを宣言されるのです。つまり十字架の上の死と再生を語って、異邦人の救済をも宣言しているのです。
 だから、24節、「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」と。イエスさまの人間救済のドラマは、当然異邦人をも含んでいたのです。彼らギリシア人もきっと救いに預かったことでしょう。
 ところで二千年後、日本の高校生であった私を悩ませた最大の聖句箇所の一つが今日のテキストだったのです。「自分の命を愛する者は、それを失う」とありますが、では、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」というあの戒律はどうなったのかと私は、激しく反問しました。それでなくても自我に目覚めていく青春期の少年にとって、これほど厳しく自己放棄を迫ってくるイエスさまのみ言葉は抹殺したいくらいでした。やがて中年期に入ってから、これは自己放棄のことではない。自己愛という自己中心の海で酔っぱらっていることへの否定だと、ようやっと気が付いたのです。それほど私は、鈍くあつかましい自己中心的な側面を引き摺ってきた小男だったのです。
 この箇所は、聞いている会衆にとっては、じつは分かり易い比喩です。会衆は比喩表現だとは知りません。イエスさまの台詞がそのまま入り込んで来たのです。
 イエスさまは、自然を善く見詰める方であり、農業もよく知っています。このテキスト個所は、自然の論理を十分に生かした比喩です。生物学的に云えば、種は地中でけして死にません。芽を出す準備をするのです。死んで豊かに結ぶのは、復活と再生の真実表現なのです。つまり比喩が比喩と意識されずに、そのまま真実として心に入って来る、それが比喩の価値なのです。
 イエスさまは比喩表現の宝箱を体内に持っているのです。それが日常生活の現場を素材にしているので一層実感が迫ってくるのです。
 24節をもう一度確認しましょう。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである」、 この台詞があの十字架のドラマになったのです。たった一人で孤独の極限で死んでいったイエス様が復活なさった。その結果この私が救いにあずかったのです。あなたも、ユダヤ人もギリシア人も。そして聖霊が降ったのです。近代ヒューマニズムは、これをナンセンスと言うでしょう。人間が人間であるというその自然的現象だけで自己肯定していれば、終わりのない欲望をつっぱしって、人間自身を神格化し世界を破壊してしまう。今やその危機の中にいるのです。私どもは、自分の欲望獲得と自分の業績の評価によって生きる根拠が与えられるのではない。
 他者との関係性の中に生きる喜びを見出して生きているのです。家族の、社会の、歴史の中で。が、それだけでは喜びの核心を捕まえられない。
 他者の窮極の他者、大いなる者の眼差しに見守られているという安心感によって生きられるのではないでしょうか。委ねることの安心感と言いたいです。そこから他者に仕える喜びが育ってくるのです。芽生え、花を、実を結んで成長し続けるのです。それは、永遠の命に至る、すでに与えられている命の道行きなのです。窮極の他者とは、生きてお働きになっておられるイエスさまです。
 イエスさまは、その仕える道について語っています。26節に注目しましょう。
 「私に仕えようとする者は、わたしに従え。
 そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる」と。
 ただし、イエスさまのことばは厳しい。「わたしに従え」と強くお命じになっています。死んで甦ったのは、キリスト者にならせていただいた私どもが辿った道行きです。この事実を噛み締める時、仕えることの深い意味を緊張して受け止め直そうではありませんか。
 「野火」の田村一等兵は錯乱してしまいました。彼を再生できる方はイエスさまのみです。田村の神を求める戦場でのドラマを描ききった大岡昇平を神さまがどのように見守っていらっしゃったのかは分かりません。が、日本人が描いた神の探求の真摯な文学作品であります。日本という土壌に福音が根を下ろす可能性を十分に指し示しているのです。
 堺市の一角にある土師町に、主よ、来たりませ。
 祈ります。

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