勝利を賜る神
コリントの信徒への手紙T 15章50〜58節
 ここに集っている私どものみではない、世界中の誰も、生まれた日のことを記憶している者はいません。そして誰も何時亡くなるかその日を知りません。このことは動植物同じであります。しかし、これほど自意識の強い動物は、人間の他にはありません。しかも人類史始まって以来、人間は、生き延びるために、他の動物はむろん植物をも生きるために殺し続けてきました。さらに同種である他の人間をも個人で集団で殺し続けてきました。人類最初の殺人事件は、あのカインとアベルの悲劇です。そして今なお殺しつづけている。シリアの内乱はどうなるのでしょうか。この人間という動物の存在意義は、いったい何処にあるのか。
 この深刻な問いを引き受けて哲学や学問が答えようとしてきましたが、誰もが納得する答えは結局見出せていない。宗教もこの問いに答えるべく苦闘し続けています。
 先週礼拝後、さいたま市の義弟宅に駆けつけました。亡くなったのです。末期癌であり、医学的治療の可能性も断ち切られ、自宅で最後を迎えました。死を受け入れるまでの苦悩は私どもには計り知れない。そして死を受け入れたあと、家族を孫たちを見守りながら、とくに妹の看護を感謝しながらほとんど苦しまずに亡くなりました。
 じつは、死期がせまった九月に、遠い九州のお母様に「キリスト教で葬式をしたい」と姉を通して伝えてもらったのです。
 10月12日、「お前がそこまで言うなら」と許可が出ました。その時に思いがけない事実が伝えられたのです。「お前のお爺さん、お婆さんは佐賀駅前で酒屋を営んでいたが、じつはカトリックのクリスチャンだった。迫害されて、強引に仏教に引き戻された。その後キリスト教については死ぬまで一言も口にしなかった」と。
 このことが何を意味しているかは分かりません。神さまがその真実をご存知です。葬儀が終わった翌朝、妹は、讃美歌「慈しみ深い」を台所で口ずさんでいました。しばらくした後、息子の甥っ子までが「慈しみ深い」をハミングし始めたと妻が報告してくれました。
私の就任式に土師教会まで来てくれたすぐ下の妹は、最近本気でルーテル教会に通い出しています。
 何かが始まっています。何かが。
 今日のテキストは、コリント信徒への手紙T 15章50〜58節です。内部分裂に揺れ動くコリント教会に対して、伝えられた福音をしっかり守るようにと促し続けたパウロの、復活のキリストに続けという強い励ましの最終部分であります。
 50節でパウロは、心を込めて、「兄弟たち」と呼び掛けます。主の体である教会に連なる私どもキリスト者は、血肉の身内を越えて、イエスがキリストであると告白して結ばれた聖徒の家族です。聖なる家族としての兄弟姉妹を侮ってはいけません。その兄弟、つまり現在の私どもに語り掛けている。51節、「あなたがたに神秘を告げます」と。これはキリスト教の奥義のことです。神秘は、理論的追求では辿り着けない真実です。論理的合理的な思考が学問であるとするのは近代的精神であり、近代的ヒューマニズムとも相乗りしていますが、明らかに行き詰まっています。 じつは、宗教が滅びない理由は、まさにここにあります。パウロは、キリストの再臨(再びこの世界に訪れるキリスト)を待ち望んでいる時代を生きていました。その中で、復活とは何かを論じているのです。が、その後二千年間キリストの目に見える再臨はありません。キリストの再臨は遅刻したままです。「再臨の遅延」と言われています。が、なくなったのではありません。
 再臨とは何かという問題は二千年間論じられて来た、そして論じられ続けているのです。
 ここに集っているみなさんは、復活を信じているでしょう。が、復活とはどういうことなのかはっそれぞれ微妙な温度差があるかも知れません。パウロは、聞いた通りの福音を守れと強調しています。そのために、復活とは何かについて、諄々と諭し、確信するように説得的に語り続けてくれるのです。
 52節、「ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。53節、「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべき者が死なないものを必ず着ることになります。」と。
 これは神から与えられる聖なる裃です。決定的な時に「変えられる」。 救いの完成です。
 地上の私どもは、洗礼と共に霊を与えられて聖徒として歩んでいますが、なお救いへの途上なのです。永遠の命を与えられる時、決定的に変えられるのです。具体的にどういう形で、どんな風に、と、聞きたくなりますが、そんな世俗的な問いは、この際気前よく打っちゃってしまいましょう。
 大切なことは、ただひとつ、決定的な救いが約束されているという事実だけです。
 57節、「わたしたちの主キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう」。 58節、「こういうわけですから、動かされないようしっかり立ち、主の業に励みなさい」と勧めるのです。
 なんだ、平凡な結論だなあと思うかもしれません。が、じつは、見えない、まだ手に入っていない約束を信じて生きいくことが一番むずかしいことなのです。この約束を受け入れることこそキリスト教の奥義なのです。
 土師教会八四年間の歴史の中で天上に駆け上った信仰の先輩たちの勝利の生涯は、天上で今なお続いているのです。
 永遠の勝利を手にしている先輩たちに続いて私どもも残された地上のひとときをしっかりと歩んでいきましょう。そしてやがて必ず訪れる再会の喜びを楽しみにして歩んで行きましょう。
 今日は召天者記念礼拝です。先輩たちをあるいは先に身許に召された我が子たちを強く想起して、思いを馳せる一日を過ごしましょう。

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