らくだの毛衣
マルコによる福音書1章1〜11節
 新約聖書の最初に収められている4册の福音書、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる福音書と言えば、あまりにも馴染み深くて
あらためてその意味を考えることもないと言えます。が、あらためて、「福音書って、どういう意味ですか」と聞かれたら、みなさんはどう答えますか。そもそも「福音」という単語は、辞書に載っているでしょうか。「漢和辞典」にも載っています。「@、イエス・キリストの救いに関するメッセージ。A、喜ばしい訪れ」。 です。
 私は、どうかと言えば高校時代から55年以上も聞いているのに、いまだに「福音」という単語に馴染んでいないのです。喜ばしい訪れと言われても日本語としてピンと来ない。英語では、ゴスペル、すなわちグッドニュースですが、「吉報」(おみくじの大吉の吉、吉報)と言う日本語のほうがぴったりするのです。キリスト教に関心のない日本人の頭の中に、「福音」という単語は位置を占めているでしょうか。キリスト教用語は、一般的な日本人の日常語の中に必ずしも席を与えられて無い感じです。「キリスト者」という単語よりは、「耶蘇」のほうが、まだ通じる地方が、いまだに多い。
 今日は、マルコによる福音書」の冒頭の1章からです。福音書の中では、一番短くて、16章しかありません。しかも一番古い。素朴な文体であるというのがわたしどもの常識です。イエスさま誕生の場面もない、が、ほんとうにそんなに素朴でしょうか。.そもそも素朴とはどういう意味でしょうか。
 私どもが今使っているテキストは、新共同訳であり、マルコによる福音書の小見出しは、ゴッシクの黒で、「洗礼者ヨハネ、教えを宣べる」とあります。これはギリシア語の原文にはなくて、今回の編集者が作った見出しです。
 むしろ、第1節の「神の子イエス・キリストの福音の初め」の一行の方が著者の言いたいことがずばりと表現されています。これは著者の信仰告白なのです。何よりも「神の子」なのです。著者は、「マルコ」ですが、新約聖書のどのマルコなのか特定できないので、まあマルコという名前だけ受け入れて、それ以上詮索しなくていいでしょう。
 それにしても何故、マルコによる福音書の冒頭の言葉が真っ先に「神の子」なのでしょう。(ちなみに原文では、「初めに」が冒頭の単語です)。 「神の子」という言葉、これは、イエスさまの十字架上の処刑のドラマを初めから終わりまで見届けていたローマ人の百人隊長の台詞であることは、みなさんがご存知の通りです。すなわち、15章39節、(96頁下段)、 「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った」。 からきています。百人隊長のこの台詞は、イエスさまの「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という父なる神に対する子なるイエスさまの全力を振り絞った訴えからきているのです。何故、異教徒の台詞をここに出したのかと言えば、十二人の弟子たちは、あの処刑の現場から逃亡してしまったからです。主イエスさまの最後を見た者はいなかったのです。百人隊長の台詞は誰が伝えてくれたのでしょうか。ひょっとすると、百人隊長は、この後、キリスト者になったのかもしれません。その経過がどうあれ、マルコはそこからさらに、これを「神の子」という信仰告白であると解して、冒頭に持って来てマルコ自身のイエスさまへの信仰告白と重ね合わせたのです。この百人隊長の台詞には、単なる素朴、伝承の採録としては見逃せない重大なものが込められていると私も思います。だからマルコは、冒頭にもってきたのです。ここだけを見ても、この福音書は用意周到に準備構成されていることがお分かりのはずです。
 そして、続いて旧訳を引用して、預言者ヨハネを登場させています。イザヤ書以来の救世主(メシア)待望に答えるために、この世に遣わされた預言者ヨハネが登場する。 
 現実のヨハネは、旧訳の預言者たちとその服装から始まって生活の仕方も全く異なっています。
 4節、「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、
罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」 5節、「ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。」 とあります。何故ヨルダン川なのか、と言えば、イスラエルには大きな河がない。ヨルダン川は、現在イスラエルとヨルダンの国境地帯に近い。出エジプトを経て荒野の四〇年の民族大移動の終わりに、ついに見えた約束の地、カナンに入るときに渡った川です。そこで洗礼を授けてということは、全身を水の中に沈めて、過去の自分を捨てる。そして、浮上させられ、新しい存在へと創造される。洗礼を授かることは、新しいイスラエルの地で、旧約時代からイエスさまの新約世界へと渡って行った川であったと言えるでしょう。
 さて、ヨハネはそれまでのどの預言者とも異なった野性的な姿で現れました。
 6節、「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。」 とあります。らくだの毛衣と言われても日本人にはピンと来ません。だいたい童謡「月の沙漠」の浪漫的な月夜の王子さまとお姫さまに親しんでしまった私ども日本人一般には、家畜としてのらくだのイメージが浮かび上がりません。らくだの蹄は割れていたでしょうか。「アラビアのローレンス」という映画で猛烈なスピードで走るらくだの戦闘部隊が写し出されたときの衝撃は忘れられません。中近東のらくだには、一つ瘤と二つ瘤種とがあるのです。らくだは、驢馬よりは後から家畜化されましたが、少なくても二千何百年年前には、すでに人間と共に暮らしていたのです。イエスさま誕生のとき、高価な宝物を携えて訪れた東方の天文学者たちを乗せてきたのはらくだったでしょう。イザヤ書60章6節には、「らくだの大群/ミディアンとエファの若いらくだが/あなたのもとに押し寄せる。/シュバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。」 とあります。らくだは、砂漠地帯(中国からアフリカまで)遠方との貿易交易には必要欠くべからざる砂漠の舟であり、戦争にも利用されました。毛皮は織物にもなりました。どうしてもというときには食糧にもなった。
 エジプトに行ったことがある人なら、らくだの背にまたがると凄く大きな動物であることを実感したに違いありません。しかもじつは荒々しい動物なのです。エレミヤ2章24節には、「荒れ野に慣れた雌ろばのように/息遣いも荒く、欲情にあえいでいる。/誰がその情欲を制しえよう。」 という禍禍しく荒々しい性情が描かれている。そのらくだの毛衣を纏っているヨハネなのです。
 アフリカのジャングルを荒らす白人ならずものに立ち向かったターザンを思い描く人もいるでしょう。
 話は、少しずれますが、オーストラリアに一九世紀から入植者によって持ち込まれたらくだが、その後野生化して120万頭まで殖えて砂漠を疾走して暴れ回っている事実をご存知ですか。旧約に書かれているように、息遣いがあらく、一日一頭だけでも膨大な量のCO2を吐き出すので、空気が汚染されているそうです。現在空軍がヘリコプターかららくだを襲撃して射殺しています。世界中の生態学者、動物保護機関から賛否両論が出されて、混迷状態なのです。「月の砂漠をはるばると」の日本的ファンタジーからは、思いも付かない悲惨な現実です。
 預言者ヨハネをどう思い描くかは、人それぞれですが、イエスさまが登場したころの、荒々しい世界の光景が見えてくるようです。
 洗礼は、一種の清めであり、世界中の宗教に共通に見られる儀式です。ヨハネの場合には、「悔い改め」が大きなテーマです。が、ヨハネはあくまでも、「主の道を整え、その道をまっすぐに」しようとした人物であるのです。後から来るイエスこそ「優れた方」であると言っています。ヘロデ王がヨハネを逮捕して殺害したのは、ヨハネの群衆動員力を恐れたからだという説があるのも宜なるかな、。群衆は、ローマからの解放を目指す武力解放戦線の英雄としてのメシアの出現を今か今かと待ちわびていたのです。
 ヨハネは言いました。八節、「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」と。
 やがて、イエスさまは、ヨハネからヨルダン川で洗礼を受けられるのですが、そのとき、10節、「天が裂けて″霊″が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。11節、「すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしに心に適う者』という声が、天から聞こえた。」 とあります。
 洗礼の時に霊が降る、これはパウロの洗礼理解、そして私どもの理解であります。
 霊なくしては、単なる禊ぎと同じです。私どもは、ひとりひとり神の子なのです。その徴が霊なのです。
 どんなに躓いても立ち直れるのは、神から与えられた霊が宿っているからなのです。
 ヨハネが整え、イエスさまが現れて、私どもにくださった霊によって、私どもは、一日一日と前進できる。前進しつづける。霊が与えられて霊に助けられて、日毎に新しくなって行くことは、すなわち希望に生きることなのです。恐れることはない、たえず進んで行きましょう。
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