若枝が育ち
イザヤ書11章1〜10節
 世界中が危機的状況の中に放り出されています。世界経済を牽引(ひっぱって)しているアメリカが財政危機に陥っていて、オバマ大統領がそのカリスマ的指導力を失いそうな危なさの中にいます。ロシアのプーチン大統領もかつての権威は無くなりつつある。中国も政治的な内部矛盾が大きく口を開きつつあります。そして、驚異的な経済成長に陰が差し始めつつあります。日本の政治的経済的文化的なほころび状況は、みなさんがご存知の通りです。
 先週紹介もしましたが、朝日新聞の記事に拠れば、日本の成人の知識の水準は世界のトップ争いをしています。が、私の理解から判断すれば、霊的、宗教的意識の低さ、というよりは霊的基盤の無さは惨憺たる現状です。例えば大きな書店の宗教コーナーに行くと、「スピリッチアル」関係の書籍に、占いや「死後の世界が見える」などという怪しげな類の本の隣に仏典や聖書が並んでいて、初めての人は何が何やらよく分からないということがしばしばです。きちんとした見識ある宗教書と、いい加減な手相占いやまやかしもの、怪しげなものとが、入り乱れている。何が宗教なのかという問い掛けや定義を持たない人々の曖昧な文化が、現在の一般的な日本人の心情なのです。
 例えば、聖書に出てくる「聖霊」や「霊」、「霊の人」という言葉を説明できない。キリスト者さえ、あらためて「霊の人」と言われると、あわててしまう人がいるのです。
 ですから、聖書の言う「霊と肉」と、一般的に言われる「肉体と精神」の区別ができない。
 「霊と肉」の「肉」とは、自己中心的価値観です。「霊」とは、神中心的価値観なのです。両者は、決して交わらない。妥協できない。対立概念なのです。こう言っても良いでしょう。世俗と聖。世俗と反世俗。
 さて、今日のテキストは、イザヤ書の11章の前半、小見出しは、「平和の王」です。有名な箇所です。南北に分裂してしまったイスラエル王国が強大国アッシリアに支配されて、亡国となっていく悲劇の歴史の中での預言だと言ったら、そんな状況下で、どうして、何故こういう預言が出来るのかといぶかしむ、あるいはせせら笑うひとも出てくることでしょう。ここは三大預言者の一人であるイザヤがその晩年に預言した一部分なのです。こんな牧歌的な光景は幻想だ、ありえないユートピア(桃源郷)を夢見る夢想家の無責任な放言だ、と、批判することもできなくはありません。
 私の答えはこうです。こんな悲惨な現実の中にいるからこそ生まれてきた戦争反対、侵略反対の反俗平和構築の世界、すなわち、非現実だとして嘲笑われる次元まで煮詰められた窮極の平和への夢なのだ、です。
 夢だと言って嘲笑するのは簡単ですが、現実をほんの少しでも変革するのはたいへんな勇気と覚悟とエネルギーがなければ前進できない。このことを頭に叩き込んでおいてなお前進して行くところからしか変革はありえない。とすれば、今日のテキストは、煮詰められた見果てぬ夢なのです。ついには神のみが実現することができる、あるいは聖霊の助けなくして実現出来ぬ窮極の平和構築のイメージなのです。
 では、テキストを丁寧に追ってみましょう。
 イザヤの平和のイメージの独自さは、動物の世界における完璧な平和のイメージです。私ども人間はもちろん動物界の中に含まれています。動物は、何故他の動物を攻撃するのか、なぜ他の動物の餌食となるのか。これは宮沢賢治が「夜鷹の星」で問うた根源的な問い掛けです。
 もっと言えば、仲間同士で殺し合うのは、人間だけに起きる現象です。人間は相手を殺すまで戦う。しかも集団で戦争に訴える。最先端まで開発された軍事テクノロジーを駆使する残虐無比の地点まで行ってしまう。このすさまじい悪は何故起こるのでしょうか。この問い掛けにまっすぐに答えられる人は未だにいない。この問い掛けに立ち向かうときに現れるのが、今日のテキストなのです。
 テキストは、4部構成です。第1部は、11章1節から3節の1行目まで。第2部は、3節の2行目から5節まで。第3部は、6から9節。第4部は、10節のみ。
 1節をご覧ください。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで」とあります。エッサイは、ダビデの父です。ダビデは油注がれた王としてメシア(救世主)の原イメージです。その木として例えられた王朝は、すぐに切り倒されてしまいました。やがてその後にその切り株から新しいメシアの若枝が芽を出してくるというのです。この発想に従って、新約聖書のマタイによる福音書は、こう書き出されています。
 「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」と。すなわちメシアの系図なのです。
 2節の第1行目は、「その上に主の霊がとどまる」。 続いて3節の冒頭は、「彼は主を畏れ敬う霊に満たされる」です。これは新しく立たされるメシアに臨む霊について記されています。それは「知恵と識別の霊」です。
これは、正しい裁きを行う力という意味です。次の「思慮と勇気の霊」とは、現在の私どもには思いつかないのですが、政治や軍事に携わる指導力を意味しています。いかにも古代の帝国の王のイメージですね。ことに四節に出て来る「弱い人」(社会的弱者)や、「貧しい人」を公平に弁護するメシアは、五節、「正義をその腰の帯とし」、「真実をその身に帯びる」のです、人間界に対して、正義と真実を貫徹するメシアは、同時に全地球の創り主として人間を含む動物界にもメシアの平和を貫徹させるのです。
 6節以下の平和のイメージを単なる自然界の牧歌的おとぎ話として受け取るなら全く間違っています。
 ここに描かれた自然界の動物世界は、家畜と野獣の対比的な組み合わせに注目する必要があります。すなわち、狼、豹、若獅子という野獣に対して、子羊、子山羊、子牛というほほえましい家畜の子供達たちとの対比なのです。これらの動物が共存してお互いを攻撃することなく共に生きていくイメージですが、とくに7節の最終行、「ひとしく干し草を食らう」部分に注目しましょう。なぜ草食なのか。これはノアの洪水前までの人間世界の草食、菜食時代の光景なのです。そこに平和のイメージがある。現在世界各地で活動している菜食主義者(ベジタリアン)たちの菜食の根拠が聖書のここの箇所であると聞いたことがあります。この立場にも一理あることを認めたいと私は思っています。話が少しずれますが、ベジテリアン(菜食主義者)は、欧米のみではなく、アジアにも沢山いるのです。「殺生」を禁止している仏教者の中には幅広く広がっています。すでに述べたようにこの問題と真っ向から取り組んだ日本人の宮沢賢治に「ビジテリアン大祭」という童話(1934)があります。ニューファンドランド島で開催された菜食主義者たちの世界国際大会の論戦を描いた異色の童話ですが、あまり論じられていません。この童話でもキリスト教が背景に色濃く匂っいますが、キリスト教的菜食主義を支持した童話ではありません。あくまでも賢治文学ワールドなのです。興味のある方は、探して見てください。
 さて、テキストに戻りましょう。
 そして野獣と両者を和解させて平和を実現させる存在が6節の「小さい子供」です。新しいメシアの登場を予感させてくれるのです。
 今日のこのテキスト箇所は単なる夢想ではありません。じつはここに登場している狼、豹、若獅子(ライオン)は、旧約聖書の中では、しばしば軍事力国家や敵、あるいは侵略者の比喩として使われているのです。戦争勃発の危機の中で、つまりイスラエルの存亡の危機の中で、イザヤの平和希求の預言がなされた。イザヤの戦争反対宣言は、なまなましい現実の苦悩の只中でなされたのです。この事実を忘れてはなりません。
 9節をご覧ください。「わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。/水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる」とあります。
 「主を知る」ことがすなわち平和への道なのです。平和のヘブライ語をご存知でしょう。そうです、「シャローム」です。朝、昼、夜の挨拶です。今も、イスラエルでは、「シャローム」なのです。そのイスラエルが今なおパレスチナと戦争状態にある事実を私ども日本人キリスト者はどう考えたらよいのでしょうか。
 そしていよいよ10節は、結論なのです。「その日がくれば/エッサイの根は/すべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。/そのとどまるところは栄光に輝く。」と。
 「その日」がいつなのか。イエスさまがメシアであることを知った私どもは、すでに私どもの心の中にその日は、すでに与えられていることを知っています。
 メシアであるイエス・キリストは、ユダヤ民族主義を否定して、ここにあるようにすべての民の旗印として御自身を立てたのであります。
 神はすべての暴力を否定しています。そして見果てぬ夢としての平和を実現されるのであります。
 イザヤが見た幻は、こうして預言としてなんと二千年以上も前に書き止められたのであります。
 私どもは、こうして、神さまの御心に接した以上、何をしたらよいのか明々白々です。
 行動しましょう。
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